com’on my house
こうしてみると この部屋にも愛着があるなぁ… だって8年もいたんだもんね。 嬉しいことも嫌なことも… ほとんど忘れちゃったけどさ。 『部屋においでよ』の 最後の場面、 今思いだすと、 ちょっと泣きそうだな。
こうしてみると この部屋にも愛着があるなぁ… だって8年もいたんだもんね。 嬉しいことも嫌なことも… ほとんど忘れちゃったけどさ。 『部屋においでよ』の 最後の場面、 今思いだすと、 ちょっと泣きそうだな。
真綿で首を絞められるように じわじわとへこんでいくなぁ… なるべく考えないようにしてるけど。 何をどう考えても 自分に責任あるわけだしなぁ… かといって『安請け合い』はできない性格だしさ… とりあえずなんか、 気晴らしでもしようか。 休みの日はヤバイよなぁ…やっぱり。 無駄に考える時間があってさ。
延び延びになってたけど なんとか決定。はぁ。 まぁ詳細は省略しますが。 なんかいろいろ変わるわ… 望むと望まざるとに関わらず。
詩や音楽が「精神的な化粧品」であるように、性もまた「精神的な化粧品」であると思われます。 たのしいセックスができることは、ダンスや歌がうまかったり、絵に秀れていたり、演技が上手だったりするのと同じようにその人の教養であり、才能でもあるべきです。(寺山修司『青女論』)
今年は友人Kと、 POG風にドライバー指名しあって 賭けて楽しむこと決定。既にドラフト終了。 今年も楽しいシーズンになるといいなぁ…
最近、よく歩く。 自転車のサドルが直せてなくて、乗りづらいからというのが主な理由だが、にしても健脚である。 休みの日も、なんやかやて用事があって、歩いている。 前の休みの日は、四条木屋町の『かつくら』で友達と飯を食い、歩いて帰ってきた。前の前の休みの日は、ライブで四条堺町まで行き、歩いて帰ってきた。それ以外に、仕事終わりも毎日歩いて帰っている。 掛かる時間も、距離も、あまり気にならない。早足で帰る時もあれば、ぶらぶらと帰る時もある。 この時間が、結構、気にいっている。
寒いけど。 この感じが春だなぁ… 春になった時には 春は半分以上終わってるのかもなー。 …んー、なんか風邪っぽい。 喉痛い。 しばらくタバコやめるかな。
あぁ、みっともない。 こうして、自己愛的な文章が並ぶと 『この人は何なんだろうな』って 思うよ、マジで。 (いや俺なんですけどね) 好きなんだろうなぁ…自分が。 (そして好きゆえ許せないんだろうな)
もしかしたら 俺はもてるのかもしれない、と思う。 あーあ、 自分で言っちゃった、 痛いな、かなり、 でもね。 たとえ、100人の女に 『好きよ』 と言われても、 たった一人の女の子に それも好きな女の子に 『嫌い』 と言われたら、 そんなこと、なんの意味もないわけです。 100人に言い寄られても、 救いにもならない、 感謝するけどね。 特別な人は、 たった一人で構わないのだ。 100人に告白されても 俺は変わらないさ、 大事なものは命を懸けて守りたい。
この叙情的な詩は、 1988年4月5日、 つまり、僕が11になって3ヶ月後に書かれた。 僕の記憶に依れば、 これは、詩として意識して書いた物の、 2作目にあたる。 (1作目は国語の授業中に書かれた、 記憶にある中で最高傑作の中の一つだが、 残念ながらほぼ永遠に失われている) この詩を書いた背景は… 初恋だった女の子が転校してしまい、 住所も、引っ越した先も知らず、 もう2度と出会えない。 そういう、ブルーな気持ちと、 いや、それでも生きていくのだ、と言う気持ち。 今読むとやたらと大人びて読めるのは気のせいか(笑) 偶然見られてしまった、母親しか、 この詩の存在は知らない。 これを書いたことを切っ掛けに、 思春期の僕は、多くの、自分の鬱屈した思いや、 憧れを描いた詩を作っていった。 (しかし決して文学的な少年ではなかった。念のため) 今読むと、恥ずかしい限りだが… 今よりもずっと、いろんなことに挑戦している。 少年の頃の僕が、今の僕に、 力をくれる。 『詩』を書かなくなって、久しいなぁ… 最近は、ノンジャンルな書き物ばかりだ。