思うことを書く。
僕もいつも思っていて、気をつけ、また危機感を持っていることと同じことを、 『ダーリン』がほぼ日で言っていた。
今日のような、つまり「8月15日終戦記念日」のような、 特別な日には、この『今日のダーリン』を書くのが難しい。 「思うことを書く」のではなく、 「書くために思う」なんてことをしそうになるからだ。 自分のこころで思っていることが探り当てられないで、 どこかで仕入れたような、 先生にほめられそうなことを書いてしまう。 そういうことが、いちばん起こりやすいのが 8月15日のような特別の日なのだと思う。そうなのだ。ものすごく難しい。 きちんと、書き表せてるように見えてしまうが、 自分ではかけ離れているという印象も同時に持つ。 僕の場合で言えば、 多くの人の意見で、既に決まっているというようなこと、 例えば『戦争はいけないことだ』というようなことを前にして、 何かを書かなければ、と思う、そこで、書くことを考えてしまう、 すると、書くことを思うと、道筋が二つしかないように見えてしまう、 戦争はいけない、と書くか、そうでもない、と書くか、 要するに世論を肯定するか、否定するか、どちらかに自分を同化させてしまう。 自分は自分の思いがあって成り立つはずなのに、 世論なしでは、自分の思いが成り立たなくなってしまう、 それはきっと僕ではないし、書く言葉に対しても責任を感じられない。 結局ね、 上手くいえないんだよ。 もう最初から、絶対的に自由じゃない。 思うことを手のひらの上に乗せて、 回しながら書いていくことが『書くこと』だと思うのだけど、 今日みたいな日のことは、手に乗りきらないんだよ。 これが例えば、アメリカ同時多発テロのことならまだ書ける。 でもそれって、あまりに他人事だからね。 アメリカ人が、原爆を平気で肯定しちゃうのも、あまりに他人事だから。 人を殺すための『必要』なんてあるわけがない。 昔はそれでも、無理矢理、感想を書いてしまうこともあったんだ。 俺はこう思う、みたいな、ね。 でも、世の中はそんなに簡単には切り取れないよ。 だから、最近は、書けないことを感じることが出来るようになったと思う。 それを書ききるには、時間と知識と、覚悟が必要なんだ。