雑記。
戦争したい人なんか誰もいなくて、
「どうやって戦争を避けるか」というアプローチの違いだと思っている。
この根本には人生観に近いイデオロギーの違いがあり、アプローチの違いを埋めるのは難しい。この別離は原発問題を契機として、目に見える形で現れてきたように思う。あえて具体的には言わないけれど、原発問題と安全保障問題には、共通した人生観が見える。
その相容れない相手を前に自らの意見を主張するとき、相手方を「悪だ」としがちだけれど、僕はそうは思わない。というよりも、悪人が世界を悪くするというシンプルな構造なら、どんなに簡単だろうとさえ思う。ロールプレイングゲームのように。
それはつまり、アメリカの対テロ戦争と同じ考え方なのだけど、何かを悪として糾弾したところで話は解決しない。誰か一人を役職から引き摺り下ろしても、話は解決しない。サダム・フセインの死も、オサマ・ビン・ラディンの死も、問題を解決できていない。
僕には映画や報道写真展などを通して得た「知識」しか判断材料がないけれど、そこで感じる怖さや無力感は、単なる戦争への恐怖だけではなく、それを避けることの困難さ、無くすことの困難さだ。暴力の構造はもっと複雑で、相対的だ。
ターゲットが絞り込まれ、アプローチがシンプルになればなるほど僕は距離を置く。僕は、問題をそんなにわかりやすくまとめてしまっていいのかわからない。「こうすれば戦争、こうすれば平和」もしこんなシンプルな構造で解決できるなら、世界にこんなに悲劇は溢れない。
アクションを起こしたい人はどんどん起こしたら良いと思う。でもそれは、アクションを起こさなければならない、ということでは必ずしもない。人はもっと迷うべきだ。自らの選択で世界を変える、その意思があるのなら、もっと迷うべきだ。僕は、迷い考えながら、見ている。見つめている。
(Facebookで限定公開していたものを加筆・修正して転載)