でもなんというか、食事には良い味があれば良いんだ、それで足りるんだ、と解ることが素晴らしいことだというのは解る気がします。それは、味ではなくて、値段やボリュームや店の名前や華美な装飾を優先させた食事を知っていて、その上で、そうではなくてこれが「ごちそうなんだ」とたどり着く価値観というか。なんですかねぇ…侘びとか寂びとかいう話に近いのかも知れませんけど、堤清二さんがそうしてそこにたどり着いたことが凄いなと思うし、それをホイッと出されて理解した糸井さんも凄いなぁと思うわけです。
京都には「有名老舗」だけではなくて、全然華美じゃない、知る人ぞ知るというか、知らない人が見たらただの民家にしか見えない、そういう老舗の和菓子屋がたくさんあって、お茶会のお持たせなんかを作っています。そういう感じ?地味な店の地味なお菓子、ただし味は超一級品というようなものを選ぶというところにたどり着く人と、それを出されてその「足る」を理解する人というのは、どちらもとても素敵だなぁと思うのです。そういう感性のやり取り自体が、もう十分にぜいたくだし、豊かだなぁと思います。
そんな大人になりたいなぁ。
・「ぜいたく」ということばの意味が、
「これだったのか」と、わかった日がありました。
忘れもしないです。
ぼくは三十歳くらいのコピーライターで、
「西武流通(後の西武セゾン)グループ」の
広告の仕事をしていました。
当時の大事な広告については、
会長だった堤清二さんが直接ミーティングに加わって、
最終的な結論は、その場で決められていました。
で、午前中のミーティングの終了時間が、
お昼くらいになることがあったんですよね。
「食事をしていったらいいのに」ということで、
重役用のランチをいただくことになったんです。
「どんなごちそう?」と、思うでしょう?
若いときのぼくらも、そう思ったのでした。
白いごはん。あさりだったか、の味噌汁。漬け物すこし。
そして、ややものたりないくらい大きさのブリの塩焼き。
なんでもないでしょう。
ブリはやや高級魚ですが、切り身うすかったですから。
でも! だけど!
米、その炊き加減。あさりの太り方、味噌汁の香り。
漬け物のちょうどいいなれた味。
ブリの塩焼きのあぶらがのっていてあっさりした旨み。
これ、ぜんぶが、ほんとにおいしかったんですよ。
それまでの、ぼくの「ごちそう観」というのは、
おそらくマンガのようなものだったと思われます。
なんだかじぶんには手に負えないこってり豪華な、
有名だったり高価だったりする料理を、
想像していたのかもしれません‥‥っていうか、
「ごちそう」について、なにも考えてなかったんです!
そんなぼくの前に、一見質素な食事が置かれたわけです。
しかも、それがとんでもなくおいしかったんです。
その日、ぼくの「ごちそう観」「ぜいたく観」が、
生まれたのでありました。
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
あなたの「ごちそう」「ぜいたく」って、どんなものかな?