「トートロジー」ってなに?

議論している時にスパッと言えると格好良さそうな単語第5位当たりにランクインしていそうな単語「トートロジー」。しかしいまいち意味がわかんないので上手いこと使えない単語でもあります。まぁ意味もわからんのに使ってみたいとか小学生かという感じですけど、ともあれいつかきちんと解りやすく使える日を夢見て意味を調べてみたいと思います。


とりあえず、Wikipedia。

トートロジー – Wikipedia

トートロジー(Tautology, ギリシャ語:ταυτολογ?α)とは、ある事柄を述べるのに、同義語[1]または類語[2]または同語[3]を反復させる修辞技法のこと。同義語反復、類語反復、同語反復と訳される。関連した概念に冗語があり、しばしば同じ意味で使われることもある。また、撞着語法はトートロジーの反対の技法である。

A Dictionary of Modern English Usageの定義では「同じ事を二度言う」とされ、スタイルの誤りと見なされることが多い。


ほー。

解りやすいけど、想像していたのとはちょっと違うなぁ。僕が想像していたのは何らかの主張に対する切り返しとして「それってトートロジーだよね?」「それは結局トートロジーだしきちんと説明できてないよ」的な感じだったのですけど、この説明だとなんか色は付いてない感じ。


Wikipediaの続き。

トートロジー – Wikipedia

同語反復(どうごはんぷく)とは「私は私であり、君は君である」のように、等値を示す語によって同じ言葉を繰り返すことである。 文学、評論等、言語表現における技巧のひとつとして用いられる。

「僕は僕だ」のような表現は論理学的には自明で無意味なものであるが、言語表現としての同語反復は修辞の一種であるので、一定の情報を含み得る。

「AはAである」は、例えば「AはあくまでAであって他のものとは異なる」という注意喚起、あるいは「Aは所詮Aであってそれ以上ではない」という主張、等々の筆者(話者)の意図を含み得る。 同様に「AはAであり、BはBである」は、例えば「AとBを混同すべきではない」という注意喚起、あるいは「AとBは(ある文脈で)異質である」という主張、等々を含意し得る。


ああ、これは解りやすいね。同じ言葉を繰り返すことに意味もあるし。要するに強調のための修辞か。でもやっぱりネガティブな感じではないのだな。僕の勘違いか。いやでも実際にツッコミ用語として使われているのを見たことがあるんだよなぁ…



今度は「トートロジーだよね」で検索。いくつか用例として「そうそうこんな感じ」と思えたものをピックアップしてみます。



[R30]: トートロジーに熱くなる

まとめてみると「ジャーナリズムとはジャーナリストの述べたテクストである」「ジャーナリストとはジャーナリズムのテクストを書く人である」っていうところがぐるぐると循環していて、不毛なことこの上ない


そうか、鶏と卵か。論理的に説明するのであれば因果をはっきりさせることが必要なのに、因果をひっくり返しながら転がすという感じかしら。


なんだろう&これだろう – トートロジーについて

Q、「平和な世界をつくるにはどうしたらいいですか?」
A、「戦争をなくせばいい」

この例が、質問=答えになっているのはわかりますか。
平和な世界=戦争がない世界だと考えるとわかりやすいですね。


なるほど、質問の部分で「平和な世界とは?」という定義を曖昧にしてるのがポイントなのですね。聞きたいことは「戦争のない世界をつくるにはどうしたらいいのか」なのに、「戦争をなくせばいい」という答えで解決しているような錯覚を覚えます。実は何にも解決してないのになぁ。おおう、不思議!


incompleteness thinking : トートロジーな説明について

「ダメなものはダメ」という言明が特定の文脈において、例えば「(常識的に)ダメ(と判断しうるよう)なものは(実際に)ダメ(なものとして処理されなければならない)」というように実際に解釈されることによって、それ以前の「ダメ」とはほんの少し異なる意味としての「ダメ」が見いだされることとなる。
とすれば、ここに出てくる二つの「ダメ」も、次に改めて「ダメなものはダメ」という言明がなされる時の「ダメ」も、一つとして同じ意味にはならず、従って同じ言葉の無意味な繰り返しとは解釈され得ない。
デリダの書いたものを直接参照したわけではないが、言わんとするところはこのようなことではないかと思うし、内田先生などもこの種のトートロジーに関してはむしろ好んで使う傾向があるように感じられる。


そうかー。トートロジーを知りたいならデリダをということなのか?難しくなって参りました。
このエントリで上げられていたページも参照してみよう。

ふき出しのレトリック – トートロジー


なんとなくのまとめ

基本的には別に悪い事じゃないんだよな、トートロジー。論理の形式でしかないから色なんか付いてないはずなんだけど、僕が勝手に思いこんでるという。ただ、この形式に見せかけて「証明終了」と見なしたがるような事が多くて、そういうのをトートロジーと呼ぶんだろうな。上で引用した平和と戦争の話で言うと、戦争を無くそうという文章は別に何の害もないのだけれど、文脈としてみると「平和のために戦争を無くす」というのはそれが定義である以上当たり前で、回答すべき問題は「戦争を無くすにはどうしたらいいか?」なんだよね。トートロジーのそういう使い方がよろしくないと。ふむふむ。

よくよく見てみると世の中には結構あるなぁ。もちろん僕の文章にも満載だなぁ。見かけ上、理屈が通ってるように見えるけど本質的じゃないというか。


正直に言うと把握し切れたとは言い難いので、継続的に考えていきたいな。うむ。




おまけ

循環論法ってのもあるみたい。

循環論法 – Wikipedia

感じとしては、トートロジーが二次元だとして、それを多次元化したのが循環論法だろうか。全部の真が証明できれば別に問題はないし、また同時に意味もないという。ただこれも論法の途中で飛躍があったり、省略があったりして、円環でないものを円環に見せかけるようなのはよく見かけるかなぁ。説得性を持たせるのに便利だけど多用しすぎるとダークサイドに落ちて、結果、理に導かれそうな…