Michael Arrington曰く、「ジャーナリズムに客観性はないが…」

先週、TechCrunchにおける今の私の投資方針について記事を書き、開示済みの財務的利益の衝突が存在することなも触れた。何度も書いてきたように、われわれの読者に対する重大な責務は透明性である。この点に関して本誌は、私のスタートアップやベンチャーファンドに対する投資情報の開示に関して、(今までもそうだったが)厳重な注意を払っていくつもりだ。さらに、それらの企業を他のTechCrunchライターが記事にする時にも投資情報は開示される。

記事中私は、本誌のやり方についてライバルたちから多くの批判を浴びるであろうと書いた。そして、まさしくそれが起きた。AllThingsDは私を「何か気持ち悪い奴」と呼んだ。The Atlantic Wireは私のやっていることが「ジャーナリズムの独立性のハードルを下げる」と言う。そして、Tom Foremskiは「一切の投資を許さない包括的方針がベスト。そうすれば読者は、バイアスがあるかどうか心配する手間をかけずに記事を読める」と言った。

しかし、ちょっと待ってほしい。
 


ごく頻繁に過激な記事を掲載して物議を醸すTechCrunch。今回もまぁ煽りの度が過ぎてる感じですけれども、個人的にはこのエントリは出色だなーと思って気に入りました。ブクマコメントでは「言葉遣いに嫌悪感」までで止まってる人が多くてどうやら人気薄の様子。アレーって感じだったので少しだけ個人的な感想を少し書いてみます。

Michael Arringtonがエントリ内で言っていることはつまりこんなこと。
  • ジャーナリズムは客観的ではない
  • 出資を受けたり個人的な関係を持つことで、メディアが伝えることに偏りが生じることはままある
  • 大事なことは偏りが生じる理由を公開した上で、読者が判断できるようにすること
まぁそうだよね、至極まっとうだよね、と僕は思います。



「聖人君子」的なイメージで言えば、メディアはいついかなる時も公平性を保ち、客観的に自体を判断し伝えるべき……と言うことになるだろうけれども、実際問題それを完璧に実現するのは難しい。スポンサーだってあるし、情報のやりとりに関わる義理もあるだろうし、イデオロギーによる情報の取捨選択だってあるでしょう。現実的に考えれば、それこそがメディアであって、読者の側がきちんとそれを把握した上で割り引いて判断すべきかなと思います。

日本の大手新聞社が不誠実だなぁと思うのは、何らかのイデオロギーでもって記事を書き続けているにもかかわらずそれをひた隠しにし、公平な「クオリティペーパー」を標榜する点かなぁと。書いてることの良し悪しは読む人によって変わるだろうけど、少なくとも公平ではないし客観的でもないよねぇ。大体、「高級紙」ってのは偏ってるもんだと思うしね。それを公平・客観的である「フリ」をするのがどうもね。


Michael Arringtonがしたことは、AOLからお金を貰うことになったことやスタートアップに投資していることを公開することで、それらに関する記事についてなるべく慎重には書くけれども、読者の側でもバイアスが掛かっていないかどうか注意深く読んでくれ、ということですよね。それに対して「金を貰うとはけしからん」みたいなことばかりに執着するから、そんなメディアは爆発しろ、と書いたというのが本エントリ。僕個人としては、それに凄く誠実さを感じたし、解りやすい、と思ったのだけど、うーん。伝わらないか。まぁそうだろうなぁ。後半に余計なことを書きすぎだよなぁ(苦笑)

ただ、メディアというものがどういうものか、については少し考えても良いかなぁと思います。
さすがに今どき、完璧な公平性、ましてや「メディアは真実を伝える」なんていう幻想を信じるようなナイーブな人もいないでしょうから。