先日ある友達が次のような趣旨のツイートをしていました。
仕事の愚痴を言うくらいだったら辞めちゃえばいいのに。
辞めちゃって自分が楽しいと思えることをしようよ。
「楽しいことをすべき」ということについては同意しますけど、
でも愚痴とは少し性質が違うのではないかなと。
むしろ、仕事を辞められないからこそ愚痴を言うんじゃないのかな。
恋愛の愚痴と同じで…「そんなに嫌なら別れちゃいなよ」といわれて、
「はいそうですね」と別れられるくらいなら、愚痴を言う前に別れてるよね。
もしくは、その一言のために愚痴を言うか。
それでも別れられない複雑な心情があってこその愚痴だと思うし、
通り一遍の内容ではないんじゃないかな。
人の心情ってそんなもんだと思うのです。
そんなことを考えて少し引っかかっていたのだけど、
糸井重里さんの本日付「今日のダーリン」を読んで、んーそうだよなーと。
以下、引用します。
生命の無事に関すること、屋根のある場所で眠れること、
食事がちゃんととれること‥‥だんだんと、
前には進んできているのだけれど、疲れてきた、と。
平凡な生活のなかでも、そういうことはあります。
その気持ちを語ることを「愚痴」を言う、と言います。
状況が過酷な場所にいても、同じじゃないでしょうか。
「愚痴を言う」、それを聞いてくれる人がいる。
お礼に、その人の「愚痴を聞く」。
そして、できれば、その日のうちに忘れよう。
軽いつらさも、重いつらさも、そういうふうな、
昔ながらの方法でしかやり過ごせないんじゃないかなぁ。
人としゃべるって、薬よりすごいもんだよ。
うん、そういうことだと思うんだよ。
愚痴の内容ではなくて、「愚痴を言う」という行動自体に意味があるんだよね。
愚痴の内容が不毛なのはそう決まっているわけでさ…
話が愚痴だと認定した時点で、今している会話の目的はその問題の解決ではなく、「聞くこと」だと。
相手も別にマジレスは求めてないしね。
仕事の愚痴を聞いてあげるだけで楽になって仕事に戻れるんならそれで良いんじゃない。
愚痴を聞いてあげるほど大事に思ってるわけじゃない、って言うなら、それはそれで良いんじゃない?
目的がお互いにずれてるから、コミュニケーションが成り立たなかった、ただそれだけの話だよね。うん。