「運命」または「運命的」についておもうこと

僕は多分、ある特定の「運命」について、ことさらに信じるということをしないのだな、と思います。
これはこの間、友達と話していたことを反芻していて感じたのだけど。


「運命」または「運命的」という用語には、遠い将来まで決まっているということそのものと、
それを前提にこのことは将来の幸せを約束するという感覚(つまり前者の一部)と、
2種類の意味合いを持っていると思います。が…そのどちらもあんまりしっくり来ない。


遠い将来まで決まっていること、そのものについてあんまり信じたくないという思いもあります。


たとえ、それが本当に存在していて、僕の過去から未来までが規定されているんだとしても、
そして例えば今ある何かとの出会いが、将来的に大きな幸せに繋がるように決まっているんだとしても、
僕はそうであることを知りたくないし、出来るだけ見て見ぬふりをして生きていたいんだと。

単純に、決まったことをなぞるのは面白くないという思いもあるし、
それが良くなるにせよ悪くなるにせよ、今を見てあがきたい…
てかそれが楽しいんじゃんね?という思いもあります。
必ず勝つ馬に賭ける競馬ほどつまらないギャンブルはないですし。


頑張っているときはもちろん、それが将来実を結ぶと信じてやっているわけだけど、
それがどうあるべき運命にあるかはあんまり興味が無くて、そういう意味で言うならば、
全部が成功すると思ってやってます。だから、どれか1つが運命的であるかとか、
これは以前の他のことより幸せに繋がるとか、そういったことはあんまり考えません。

言ってみれば全てのことが運命的であって、今目の前で起きている全てのことは運命的で、
何かについてことさらにそれを強調しても余り意味がないんじゃないかと。
逆に言えば、運命的でないものってなんなの?という。
運命的であると感じるかどうかに関係なく、僕は目の前のことを無条件に信じます。
それが、過去の何かや将来の何かと繋がっていることについて、信じるわけです。
それを何かに担保してもらう必要は、僕にはありません。



ああ、先日話していた友達が「運命」を強調していたわけではなくて、
どちらかと言えば僕のほうに近い立場で共通の話題としてそういう話をしていたんだけども、
多分僕が感じていた違和感ってのはそういうことなんだろうな、と。

ただ単純に、直感を信じられないから運命と言い切れないということではなく、
目に見えないものを信じないから運命を信じないと言うことでもなく、
こんだけ多種多様な要素が絡み合ってる中で自分の目の前に落ちてきたものは、
そりゃ運命的だろうよ、と思うわけです。当たり前じゃない。

だからこそ全部が全部大事なんであって、その点で優劣なんかないし、
「あれは運命的じゃなかった」なんてことにもならない。
そのことがあって、今があって、未来があるなら、それもやっぱり運命的なんだと思うしね。



そんな、解るような解らないような用語なんかじゃなくて、友達が口にしていた、
「ああ、この人とならやっていけると思ったから結婚した」という言葉の方がよほどわかりやすいし、
言いたいことは同じなんだとしても素直な言葉なんじゃないかな。
そこで、装飾する必要なんか特にないんだと。

過去の自分を消したいときもあったし、今もそんなに好きじゃない部分はありますけど、
ただ今は良いことも悪いことも全て運命的だったんだなと思えます。
生きてるってそういうことなんじゃないですかね。もしかすると。