僕固有のさびしさと、僕から見える人たちのさびしさ。

「このさびしさをどしたらいいの」ということを延々考えて、人生単位で見てもそれはそれは長い時間を浪費しました。

その中でまず気付いたことは「人はさびしいとおかしくなる」ということでした。
 

僕は、これは強がりでも何でもなく、
理由なくさびしい、という概念が、他の人間と比べると希薄であるようで。
そう言う意味で、大枠で、さびしいという概念を共有できる人ではないようです。


僕にとってさびしいとは、
それそのもの単独で成立できる概念ではなくて、

『?が居なくてさびしい』

とか、

『?が無くなってさびしい』

とか、

そういうさびしいと釣り合いを取る対象物があって初めて表に出てくるもので、
一人で部屋にいて、誰もいないことに、
つまり自分以外の何者か(不特定な誰/何かまたは特定多数の誰/何か)を求めて、
さびしさに悶える…ということがあまりなく。

それは一人遊びと言うことなのかもしれないけれど、
別に家族から見放されて育ったわけでも無し、
友達や恋人がいないわけでも無し、
どうしてそんななのかはよく分からない。



なので、そんな僕にとって、
『さびしい』という概念自体が上手く掴みきれないところはあるのだけど、
それは別に僕の中にさびしさがない、と言うことの証明ではなくて、
例えばあったとしても気付いていない、ということなのかもしれないわけだし。

ま、本気で真性にへいちゃらなんかもしれないけど、
まぁ、孤島や1人だけ残された世界で生きていけるとも思えないし、
読者の全く居ないブログも書けないし、
さびしさは内包されているんだろうな、と。



それはつまり、