【スルー力】の解釈

はてなCEO、id:jkondoの日記より。

なんか最近「スルー力」という言葉が流行っていて驚いているのですが、「なんでも華麗にスルーできる人は偉い」というような価値観だけが蔓延するのもどうかなあ、と思っています。
 

おおっと。

なんか違う気がするぞ。

まぁ別に僕は提唱し始めたわけじゃないので、正しいか分からないけど、
僕が思う『スルー力』(するー・りょく)っていうのは、
何でもかんでもスルーする能力、ではないのだよね。


近藤さんは、
他人が自分に対して意見を言うのは、他人が自分に対して興味を持っている証拠であり、その興味を最大限生かす鍵は、意味のある意見を「スルーしない力」だと思います。
と書いてはるのだけど、
コレは僕の中では、『スルー力』と、矛盾していない。


スルー力が必要とされる場面てのは、例えば、
自分に対する明らかに電波な批判だとか、
ことさらに自分まで批判に加わる必要のない痛いヒトだとか、
そう言うことだと思うのね。


で、そういうモノを見掛けたときに、
ま、俺が脊髄反射する必要はねぇよな(なぜなら既に十分議論されてるから)、
といって、表立って反応を示さないことを、『スルー』だと僕は思っている。

そして、『スルー』を適切に出来るかどうかの分かれ目は、
その意見には意味があるのか、もしくは無いのか、
それをきちんと、見て(聞いて)、判断できることだと思う。

要は、『スルー力』というのは、
判断力と、オトナの対応との、両方を示唆しているわけで、
なにも、全てに対して無関心を装え、と言うことではないのではないかと。
スルーするべきでないことに対しては、
きちんと対応する、それが基本で、その上で、
判断を行うからこそ、スルーすることが生きてくるんだろうなぁ、と。


んで、コレはまだあんまり分からないけど、
この『スルー力』における『判断』だけど、
主に、リアクション寄りの『判断』なのではないかと。

近藤さんの文中の例えを参考にするなら、
若いアーティストが自らに対する批判をスルーすることは、
『スルー力』の趣旨(もちろん僕の個人的な解釈)に添わないと思うのね。

『スルー力』が示唆するのは、それとは逆のことで、
例えば、批判されたときにそれに対して、
あからさまに嫌な態度を取ったり、ふてくされたり、そうした、
適切と思えない態度を取らない、と言うようなことなんじゃないかと。

実際にどう自分の中で消化するかは、批判の内容にも依るけれども、
何にせよ、批判されたことに対して脊髄反射しないことが、『スルー力』で、
内容を噛み砕く、内容を判断することと、『スルー力』とは、
恐らく関係がない気がする。

関係があるとすれば、それは、
その若いアーティストが逃げる理由を欲しがってるときだけかな。


僕個人は、その単語を、意識すればするほど、
安易にスルーすることがないように気をつけているのだけど、
てかそうじゃないと、スルーできない。怖くて。

現実世界における、呪文みたいなもんだとおもっとけば。良いかと。
(実効性はないけど、落ち着くような気がする)