以前、書いた、『インターネット的』(糸井重里・著)を、
和歌山旅行の間に読みました。
前回のエントリでは、『予言』『糸井的になる』って言うようなリアクションが、
どうも、僕の感じてきた、(外から見た)糸井氏とずれてたので、
そんなこと言わないだろう、
もしくは、関係者が自分に合わせて解釈しちゃってるだけじゃないのか、
と思っていたんですが、さて。
結論から言えば、この本は、『インターネットの本』ではない。
この中で常に語られているのは、
インターネットの普及によってクローズアップされてきた要素があり、
それらはこれまでの社会生活の中でも、
たびたび光を当てられてきたものではあるが、
類を見ない純度でそれらを含み、
また急速に広がるこれらは、社会を変化させていくだろう。
むしろ、社会の変化が、こういったものを要求している。
そういう、『糸井重里の予言』である。
しかしね、これを持って、本書が『WEB2.0を予言した』と言ってしまうのは、
WEB関連で働く人間の、大きな『手前味噌』だと思う。
確かに、僕が思っていたよりも多くの『予言』を著者は行っているけども、
むしろ、それは、見えていないからこその予言なのかもしれない、と思う。
本書を執筆した時点(2001年)において、
彼にはそれが見えていて、周りの人間には見えていなかった。
予言と違うのは、それは、この先起こることを漠然と指摘したのではなくて、
現在こうなっている、という視点が常にあるということだ。
これは、ただの予言者とはまったく違って、
現在も同じように、現在の状況を洞察し、
将来どうなるかを考えている、と言うことを意味する。
彼にとっての、2001年での結論が、2006年での結論であるはずがないし、
同じように『予言』しているはずだ。
僕が、本書における『帯』の言葉が陳腐だと思ったのは、
結局、これを予言だとありがたがる人たちは、
そうした現状やら、洞察やら、そんなことはどうでもよく、
今儲かる手段を知りたいだけなのだ、と感じたからだ。
社会がどうであるとか関係なく、
今芽生えた柔らかい新芽を片っ端からついばんで、
本書を、バラバラにし、役立つところだけ都合良く解釈し、
まぁ、今のがダメになったらまた糸井さんに予言してもらおう、みたいな、
そんなことに思えたからだ。
この本をインターネットの本だと解釈することは、
結局、インターネットが社会の一部である、という認識を失っているに他ならない。
すべてのサービスは、勿論、運用には技術がベースになってはいるが、
サービスそのものは人間に、ひいては社会と言うモノに立脚しており、
そして、そのサービスを行うために、インターネットが存在している。
言ってみれば、指摘していることは、実は、
『インターネットが社会に影響を与えるほど大きな存在になる』
ということだけだ。
インターネット『的』という言葉を使っているのは、
それまで、多くのショーバイや、コミュニケーションで大事にされてきたものを、
インターネット上で再発見することが出来る、
それを、インターネット側から逆算すると、
(本来は、そちらの方が元祖なのだけど)インターネット『的』である、
ということになるんじゃないかなぁ、と。
本書は、ネットに付随する社会を読み解くのに、非常に面白い本だと思う。
ただ、もし、上司がこれだけを読んで、うんうん、とうなずいていたとしたら、
僕はものすごく不安だ。
きっと、何の判断もなく、業務の方針を変えたりしそうだ。
この本から学ぶべきことは、糸井重里の言うことではなくて、
その洞察、だと思えてならない。