The Color Purpleを見た。
時代感覚の調整が上手くいかなくて、衝撃的だった。
次第にそういう描写にも慣れたけれど、
極端な男尊女卑に対しては、嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
加えて、テーマに、徐々に人種差別が入り込み始めると、
僕の中で、人間性と、価値観とは区別しうる、という思いが沸き上がってきた。
暴力をふるう(そして妻以外の女に入れあげる)夫が最低なのは言うまでもない。
しかし、その息子が、妻に暴力をふるうようになっていった過程が示唆するように、
そうした行動は決して、彼自身の人間性だけによるものではなく、
周囲の環境によって作り上げられた価値観、
つまりは、女も子供も言うことを聞かないヤツは殴って黙らせろ、
そんな価値観によって決められた行動なのだと。
必ずしも、悪いのは彼だけではない。
そして同時に、そうした価値観から逃れられない、
人間性としての弱さ、そんなものも示唆されている。
(弱さ故、結局は多くの人を裏切ることになる)
見終わって、僕が一番不快だったのは、
暴力をふるう黒人男性、ではなく、
ボランティアを自己満足のために行い、親切とはき違えている、
白人市長の妻、だった。
黒人女性に対して、息子をメイドとして差し出さないか、と笑顔で言ってみたり、
助けようとした黒人達に囲まれていった言葉が、
あなたたちを支援して随分助けてきたのよ、寄らないで!であったり、
自分が(メイドとしてほぼ)監禁している黒人女性が、
実家に帰れたことを自分の親切と勘違いしてほほえむ様であったり、
僕の中で、人間、ああなっちゃおしまいだな、そう思う、
最低の人間だ。
最低の人間というのは、
必ずしも、最低なことをする人間ではない、と思う。
最低なことをしていることに、気づかず、しかも、
そのことに自分では誇りを持っているような、そんな人間なのだと思う。
以前僕は、ホワイトバンドのアホらしさを書いたことがあるが、
親切というのは、相手の価値観に沿ってなされるべきで、
自分の価値観、ホワイトバンドで言えば、
白いわっかを付けさえすれば、意思を表示したことになると言うローカル・ルール、
それに沿ってなされる行為は、親切ではなく、
もはや、悪意ですらない。
そこには、何も、ない。
この映画の唯一の救いは、
主人公の女性が、苦しみながらも、楽しみを見つけながら生きていたこと、
そして、最後には、本当に心から笑えること。
虐待してきた罪は赦されないが、
夫である男性が、罪滅ぼしをする機会を与えられたこと。
暴力をふるっていた息子、そしてその妻が、
その無意味さに気づいたこと。
それぞれの中に、何かが変わる、きっかけが生まれたこと、だと思う。
だから、美しい。