誤解されやすい言い方だけれども、と前置いて、
こういう時期に「額に汗して働く」という価値観に、と書かれていた。
逃げ込んではいけないと思うのです。
その考え方…というか、書き方が自分によく似ていて、共感した。
働くこと、努力すること、
そう言うことは素晴らしいのだけど、それが目的になると、
全体としては良くないよ、ということを言っているのだろうね。
しんどいこと、例えば残業とかだけど、
最初はこの残業が全体のこの部分を突破するために必要とか思ってるけれども、
そのうち、しないヤツはけしからんとか、
こんなに頑張ってる俺偉いとか、
何かの理由付け、必要な存在として残業があるのであれば、
それは少なくとも一つの意義は見失っているということになるよね。
自分の考え方の拠り所として、
人に聞いた話や文献を上げる人は少なくないと思うけれども、
それをどう消化しているか、という点で見れば人によって全く違う。
そう言う話に、この『額に?』という話は繋がっていく。
無自覚、無意識のまま、大枠の安定を疑問無く受け入れていく、
そういう姿勢で良いのかな、と。
ものごとをマトモに考える場合、
『良いに決まってるじゃない!』という言葉は存在し得ない。
ウィトゲンシュタインの言葉を借りるまでもなく、
例えば、この部屋に象がいることの否定は、
象がいないことの証明にはならない、
ものごとには、何であっても、きちんとした検証が必要だ、ということだ。
もちろん、僕だって経験則や感覚で乗り切れるところはそうしているけれど、
こと生き方に関する部分で、
何かの価値観、
『世間で良しとされているらしい価値観』に、
くるまれて安心することを目的に生きるようなことは、
絶対にしてはいけないと思っている。
結果的に、そうなるのはかまわないけれども、
自分と相談し、自分で決断しなければ、
その状況には命は吹き込まれない。
日本全体が、安定志向、保守化の方向へ向かっている、そういう話を最近よく聴く。
政治の問題ではない、
ひとりひとりの、判断基準の問題だ。
プログラミングに例えて言うなら、意識のモジュール化だ、
状況に合わせて、既に評価の固まっている『思考セット』を導入する。
状況に合わせて、価値観がセットになっており、
それってアリだよね、といえばインストールは完了し、つつがなく生きていける。
何かダメなことがあったら、このモジュールバグだらけだな、
って言って他のものと取り替える。
そう言う人を、もちろん京都でもよく見る。
親しい友人でもその傾向がある人はいるし、あまり関係ない。
でも僕はそれは、意識レベルでの退化だと思うんだよね。
自分の価値観、分かり易く言うと判断基準を、他の何かに頼る。
ニアリーイコールとして、判断を、他の何かに疑問無しで委ねることになる。
そこに不安や不満はないのだろうか。
もうすぐ29になるけれども、29年間、不器用に生きてきた。
遠回りもしたし、いまだってしてるけど、
でもだから、いろんなことを得ていると思う。
自分の言動には責任を持つ。
同じように、きちんと物事を判断できる友人達とも出会えた。
残りの人生が何年あるかは知らないけれども、
僕は判断して生きていく。
そして、『私もそうしてるよ!』と思った人は、
本当にそうか、考えてもらいたい。
僕も考える。
自分は、『糸井重里』と言うネームバリューに負けて、
考え方を微調整してMutterを書かなかったか?と。
『楽に生きる』ことは誰にだって出来る。
でもそれは『楽』しいかい?
作るから、楽しいんだ。
(全文転載:保管用)
なんというか、非常に誤解されやすい言い方なのですが、
こういう時期に「額に汗して働く」という価値観に、
逃げ込んではいけないと思うのです。
「額に汗して働く」というのは、価値あることです。
しかし、それは目的ではないのだと思うのです。
額に汗すること、努力すること、地道にやっていくこと。
それらは、姿勢としての美しさを持っています。
ですが、くりかえすけれど、それは目的じゃない。
1+1が2になるということに、
ほっとしていたり甘えていたりしていては、
夢も希望もありゃしないのだと思うのです。
前に、農業の現場に取材に行ったときに、
自然薯をつくっている農家の方が、
「こんなに小っちゃい種イモから、
こーんなに長い自然薯ができてさ。
高く売れるんだもんなー。
だーから百姓は儲かるんだよ」と笑いました。
農家は損ばかりしてて、辛い仕事ばかりで、
という声ばかり聞いていたぼくらは、
この笑い声につられて大笑いしました。
なにも考えずに、目の前の土を耕すことの尊さに
満足していたら、笑えるもんじゃないと思いました。
前々から、よく「ほぼ日」で書いてきました。
『多忙は怠惰の隠れみのである』という言葉を。
どこに狩りに行くかを真剣に考えるからこそ、
獲物も手に入るし、たのしみの時間もつくれるのです。
毎日ニュースになっている大きな事件のせいで、
ベンチャーそのものが疑わしいように語られます。
安定や、くりかえしの大事さが、
過剰に語られるようになっています。
ぼくは、こんなときだからこそ、
自分はベンチャーでありたいと思います。
額に汗することに、逃げてはいけないと言います。