友達の家族が亡くなった話を聞いて、
去年、おじいちゃんが死んだときのことを思い出してた。
そうね、まぁ長男の長男ってことで、
喪主(父親)がいないときは挨拶回ったり、
(偉い人だったんでね…とにかく、参列者が多くてね)
俺よりも、
ずっと隣で一緒に住んでた、
ばあちゃんと、おばちゃん(独身)の方が辛いだろうし、
笑って、ね、別れようよ、っていって、
みんなで馬鹿な話して笑ったり。
あんまり、しんみり、泣くような場面ではなかった。
葬儀の日、火葬から葬儀場に帰ってきて、
お経とお焼香、多くの参列者、友人、喪主の挨拶と、
孫代表の挨拶があって。
役割的にも、まぁ、あれ的にも俺だ、
ってことになったらしくて任されてた。
京都から帰って、その日の晩に下書きを書いて。
どうしようかな、と悩んではいたけど、
それは一般的な書き方を知らなくてどうしよう、ということであって、
自分の文章力自体にはさほど不安はなかった。
でも、ニュアンス的なことに迷いがあって、
一応、家族に相談してみた。
妹は…もっと派手な言葉をちりばめて、
感動的な大団円にしたかったらしい。
泣きの言葉がちりばめられて、号泣しながら、しゃべるような。
彼女なりに考えて、
そういう原稿を書いてくれた。
でも僕は、そういう挨拶にはしたくなかった。
もっとね、シンプルに、
飾り立てた言葉ではなくて、
自分の心情や、想いに依った言葉を、最後にかけてあげたかった。
それが、僕が今まで生きてきて得た、自分らしさの一つの形だし、
なにより、自分の言葉で語りたかったから。
なるべく、平易な言葉で。
なるべく、誰にも分かりやすいように。
なるべく、率直に。
僕の心も、在りし日のおじいちゃんの姿も、
一つも飾ることなく、ありのままで。
できあがった挨拶は、凄く簡素なものになった。
でもね、それで十分なんだよ。
立派である必要なんか無かった。
僕が、想いを持って、読み上げるんだから。
大事なことは、伝えることなんだ。
僕が、おじいちゃんと最後の会話をして、
したためてきた手紙を、墓前に供え、
振り向いたとき、泣いていない人はいなかった。
嬉しかったんじゃない、
そうではなくて、
僕の言葉と想いが、多くの人に伝わったことで、
きっとおじいちゃんにも届いたかな、と、
少し、安心したんだ。
言葉とは、そういうものだよ。
本当に大事なのは、飾りの部分なんかじゃない、
想い、なんだよ。
僕は、そう信じている。