brightness

眠気に耐えかねて、いつもより少し早い休憩を取り、
コンビニでおにぎりを2個買って、本能寺へ。
ビルに囲まれた、箱庭のような空間に、光が溢れている。


ここ3ヶ月ほどの感覚に、少し安心感を覚えている。

思春期以降、僕は常に自分というものにバランスを求めてきた。
現状の自分と、自分の理想と、他人の目と、
そのうちのどれかを強く意識することで、一方を否定したり、一方を追い求めたり、
昨日の自分を否定する、友達の発言を拒絶する、
自分を含めた周囲に対して、
少なくとも表面的には強く当たることで、自分を保とうとしてきた。

だから、人と接するときも、かならず、拒否する、言い負かす、もしくは、理解しようとする、
そのような接し方だったし、相手(自分含む)の真意を察していても、
スタンスを明らかにし、選択的に拒絶することで、自分へ入り込む思想を制限し、
簡単に言えば、話を聞いてるようで実は聞いていない、
異質なモノをそれと認めることが出来ない、そんな接し方だった。

実際の話、そういう傾向は今でもたまに見られる。
特に、親しい人であればあるほど、
自分ではない考え方を自分に置き直して考えようとするし、
理解できない考え方には、反証を求めたりする。
自分が本当は、曖昧で、日和見な人間なのに、明確な解答を欲しがる。
すべてのものに、自分の言葉による、評価が欲しいのだ。

そうした行動が、必ずしも、悪いことばかりだったわけではない。
僕が何を望むか、ということは伝わりやすかったし、
誤解を解くように徹底的に努力することもできた。
でも、実は、僕に対するそういう印象こそが実は誤解だったのであって
それは僕自身が、僕自身に対してもしていた、『パフォーマンス』に過ぎなかった。

恋愛が、そうしたこと、全てを示唆し、象徴している。


結局は、僕が、いかに自分として安定するか、それだけしか考えていない、
そんな人間であることを浮き彫りにしたのが、距離であり、感情の行き違いであり。
今でも僕は、当時の彼女の主張が正しいとは思っていないが、
自分自身の曖昧さと、解答を求めるスタイルの差、に、誤解があったと思っている。

きっと、理解されるのを拒否しているのだと思う。
怖いのだ。
あなたは、こうなんでしょ?と言われるのが、怖い。
陽の当たる場所で笑っているときでさえ、影の黒さを気にしている。
それを、抱きしめるのは、恐らく…難しすぎたんだと思う。

今、と昔は違う、と言うけれど、果たして何が違うのだろう?

最近だって、落ち込むし、凹む。疲れもストレスもある。
ただ、ひとつだけ違うことは…仕方が無いじゃないか、そう思える。
決して、逃げてるわけではなくて。
失敗するたびに正反対へ走るようなことは、正しくない、と思う。
それは、考えているようで、考えていない。
極めて反射的な、思慮の浅い、『運まかせ』な行動でしかない。

そういえば、彼女だった人も含めて、多くの人の『嫌いだった部分』を
いつの間にか忘れてしまっている。
今だって、友人の、好きではないところや、嫌いなところは多々あるが、
僕はその人の一部と付き合ってるわけではないのだから
僕に嫌なところがあるのと同じように、誰にだって相容れない部分はあるし、
無理なら側にいなければいいだけだ。


だいぶ時間が経ったこともあるが、好きだった人たちに、今あったら、
また少し違った印象を持つんじゃないだろうか。
否定していた部分にかわいげを見出したり、
好きだった部分に、違和感を感じたりするだろう。
しかしそれは…広い意味で、『忘れている』ということに他ならない。


よく会う友達でさえ、会うたびに、先入観を忘れることが出来る。
いや、思いこみかもしれないが、でも、あまり、縛られないな、と思う。
いろんなモノへの評価が、一度、全て、壊れたのだ。

別れを経験して良かった。
極めて自分本位な考え方であることは認める、
でもあれがなかったら、ただ、わかったつもりのまま、だっただろう。


休憩が終わりに近づいて、
『いま、出会ったら、どう思うんだろう?』と、ふと考えた。
でもそれは…きっと、考えても仕方のないことなんだろう。
会う、と、出会う、は違うのだから。


煙草を消し、腰を上げて、日陰から陽の下へと、歩き出す。
今、僕には、君を否定する理由はどこにもない。