Mutterへの最近の思い

正直に言うと、最近、MUTTERを書くことが、怖い。ここを読んでいる人、僕が知っている人もいるけど、誰かわからない人もいる、僕と、ここを通してしか繋がらないような人がほとんどだ。読み返してみれば、この文章群というヤツの中には、現実でエクスキューズする事を前提に、または、現実に対するエクスキューズとして存在している文章が、数多くある。僕自身、読まれることを意識した上で、独り言、と嘯いているけど、実際、現実なしに、エクスキューズだけを読まれることの方が多い。自分としては、あのときこうは言ったけどでもこういうこともあるよね、とか、こうだと思ってきたけど、こう考えられないこともないね、というふうに記述したとしても、正しく解釈されるとは限らない、自分の中の揺れのどちらか一方として解釈される。僕の書くものはそんなに立派なものじゃないけど、世の中のものを書いている人たちというのは、自分のフィーリングと、読み手の持つ感情との差について、悩まないのだろうか?話し言葉では語尾を濁すことが出来ても、書き言葉では言い切らなければならない、『そうだとしても…』と曖昧に文章を閉じたとしても、それは暗に否定を示す文章として、言い切られる。文字は、それ自体に意味を持たせることを、書き手に要求する。それはよいことでもあるし、僕ら日本人のような感性のもとでは、良くないことでもある。僕の中で揺れている感情を書き留めたとしても、多くの場合は、その一瞬の位置としてとらえられる。揺れる振り子を、高速シャッターで写真に切り取ったようなものだ。それを見ただけでは、動いているのか、静止しているのか、よく分からない。
本当は、全て割り切ってしまえばいいのだと思う。このサイトを読むことでしか僕とコミュニケーションをとろうとしない人は、物理的に不可能な場合をのぞいて、僕とのコミュニケーションを拒んでいる、と。ある意味で正解で、ある意味で間違っていることを僕は知っているけど、読んでいる人が求めているのは僕ではなく、mutterなのだと、割り切ってしまえば、どんな反応があろうとも、むしろ、無視されようと、気にはならない。下着泥棒の求めるものはあくまで下着そのものであり、覗き魔のそれはあくまで覗くという行為であり、特定の個人に対する感情であることは少ない。そのことはつまり、このサイトに関わる人間の中で、唯一僕だけが空回りし、一人芝居を打っているのであり、街角でキリスト教の良さを訴えるおばさんと大して変わりがない、ということを示している。
書きたいことを書けばいい。だが、それをすればいつまでも代わり映えがしないことも知っている。もう、いい加減、そんなことを書くのには飽きた。もうたくさんだ。手を変え品を変え、同じことを書き続けるのは精神衛生上、よくない。書きたい、と思うことが嫌で嫌でならない、それが最近の、僕とmutterの関係なのだ。