「ごちそう観」「ぜいたく観」(今日のダーリンより)

ほぼ日、今日(2011/09/21)の「今日のダーリン」に書かれていた、「ごちそう」というのはどういうものか?ということを理解した糸井さんの経験がとても興味深かったのですけど、感想を書こうとするとどうしても背伸び感が。要は、「色んなことを知っていくと、華美な装飾を愛でるような『ごちそう感』から、それそのものの質を高めるという『ごちそう感』に向かっていく」というようなことを書きたかったのですが、多分、僕自身が心底実感しているわけではないんでしょうね。だから上手く言葉にならない。解っていることは30%くらいで、残りは知っていることか想像。まぁ実際に、堤清二さんの昼食をいただいたわけではありませんし…知ることは簡単だけど、解ることは難しいですね。 でもなんというか、食事には良い味があれば良いんだ、それで足りるんだ、と解ることが素晴らしいことだというのは解る気がします。それは、味ではなくて、値段やボリュームや店の名前や華美な装飾を優先させた食事を知っていて、その上で、そうではなくてこれが「ごちそうなんだ」とたどり着く価値観というか。なんですかねぇ…侘びとか寂びとかいう話に近いのかも知れませんけど、堤清二さんがそうしてそこにたどり着いたことが凄いなと思うし、それをホイッと出されて理解した糸井さんも凄いなぁと思うわけです。 京都には「有名老舗」だけではなくて、全然華美じゃない、知る人ぞ知るというか、知らない人が見たらただの民家にしか見えない、そういう老舗の和菓子屋がたくさんあって、お茶会のお持たせなんかを作っています。そういう感じ?地味な店の地味なお菓子、ただし味は超一級品というようなものを選ぶというところにたどり着く人と、それを出されてその「足る」を理解する人というのは、どちらもとても素敵だなぁと思うのです。そういう感性のやり取り自体が、もう十分にぜいたくだし、豊かだなぁと思います。 そんな大人になりたいなぁ。

続きを読む