いたたまれない…

JR福知山線脱線事故。 仕事中にちらっと見たときには、脱線、怪我人多数、とあり、 そこまでの大惨事とは思えなかったのだけど、 家に帰ってテレビを付けたら、 死者50人以上、現在も救出作業が続く、と… 胸が締め付けられるような想いがする。 事故の原因に関しては、人災、事故、その他多くの理由が挙げられているが、 真相は分からない。 ただ、一人でも多くの人が助かれば…、と それだけを願う。

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おはようございます。

今日もよく晴れております。朝、マンション1階にあるツツジが満開でした。一昨日くらいまで全くそんな素振りも見せなかったのに…不思議なことです。そして起きてからずっと、右耳がおかしくてなんだか変な感じ。中耳炎とかかなぁ…わかんないけど。例によって、そのうち治るだろうと思っているんですけど。ちょっと痛い。 結局、昨日は帰宅後、ばっちりF1を見てしまったので、当然今朝は9時起きで、走りにも行けず、まぁだらだらと準備をして過ごしつつ。うーん、なんかスッキリしない。そして、先日内出血していた左目(血はもう無くなった)は、依然としておかしい。目やになのか何なのか、コンタクトしてても曇る。洗っても、レンズ変えても。うーむ。 季節の変わり目のせいなのか知らないけど、どーも、体調が微妙。基本線としては、非常に元気なのだけれども。

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帰ってきました。

窓際の会第1回会合?みどり色に染まる?は、無事に終了。 様々な話をしつつ、しこたまお酒を飲みつつ、 うしのほねの料理に舌鼓を打ちつつ。 なかなかに満足です。つうか、眠い。おやすみなさい…。

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煙草と花粉症。

本格的に花粉症になってから、煙草の量が減り続けている。 別にね、禁煙してるつもりはないんだけど、 煙草を吸うと、鼻水がひどくなっちゃって、くしゃみが止まらなくて、吸ってられないの。 去年くらいから煙草の量が徐々に増えていって、 2月には、大体、1日1箱くらい吸ってたんだけど、 今はそうだな、大体1日5本くらい。 1箱が20本入りだから、¼…くらいかな。 この間、出勤前に吸ったら、残り少なくて、 『あぁ、どっかで買わなくちゃな…』 と思って仕事に向かったのだけど、それで1日もってしまった。 だからといってストレスが溜まるわけでもないし、単純に吸う量が減っただけで、 まぁ、健康的、というのだろうな。 花粉症が一段落して、毎日の花粉予報も、やや多い、や、少ないになるに連れて 吸う本数も徐々に増えつつあるから、 結局、期間限定の節煙にしかならなかったんだけど。 なかなか止められないよな、煙草って。 そのうち、止めるとか、止めないとか言いそうな気がするけど、 まぁ、今のところは、健康を害しすぎない程度に、ってことで。

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kimotinoii hi

結局、気が付いたら3時で、目が覚めたら13時半でした。実際に活動し始めたのは16時。うーむ。やはり、休日ってヤツは『消費される』モノになってしまってるなぁ。のそのそと布団から這い出して、珈琲を飲む。一息ついて、外があまりにいい天気なので、散歩を兼ねて御所を走る。夕方の御所は、犬好きにはたまらない環境…特に日曜日は、犬だらけ。八重桜が満開で、花見をしてる人も多く、にぎわっている中を走る。ふう。気持ちが良い。 家に帰って汗を流し、何となく家を片づけつつ、メールの整理などをしつつ、音楽を聴きつつ。

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孤独という環境。

僕は、比較的孤独に強い人間である。 これは、さっき、真っ暗な京都御苑の中をジョギングしながら思っていたことなのだけど。 完全な、孤独、ってヤツは、 日常生きていると、意外とない。 一般的に孤独って言われるようなこと、 例えば、部屋に一日中引き籠もっているとしても… それはあくまで、部屋の外との関係性の上に成り立っているんであって、 全く、完全に、自分だけ、という状況じゃない。 見た目、自分ひとりだけなんであって、孤独なんかじゃない。 昔、よく自転車で旅行をしていた頃(今でもしたいという気持ちはあるけれど)、 全くの孤独、という環境に自分の身を置くことが幾度かあった。 一般人は滅多に足を踏み入れないような山の中、 踏み外すと海へ真っ逆様な断崖絶壁(一応、自転車道ということになってはいた)、 行くも戻るも、大雨の雨粒の中、今日寝る場所も見つけられないような日、 まだ日も昇りきらない、湖畔の遊歩道、 何をどう考えても、半径何キロか以内には僕しかいない。 そういうときに感じる、孤独、という感情は、意外なことに、全く不安や恐怖には結びつかない。 もしかすると、僕自身が特殊なのかもしれないけれど、 誰もいない、およそ人類と呼ばれる生物とは、何の関係性もない、 そんな状況で、自分と『ふたりだけ』の状況というのは、 少なくとも、僕にとっては、この上なく心地良い。 もちろん、そんなときにトラブルが起きることもある。 パンクした自転車を引きずって、重量を減らす為に空気入れを積まなかった自分を恨みながら、 10キロ以上自転車を押して市街地を目指したこともある、 雨合羽が、ただの気休めにしかならなくて、 自分の体より荷物を優先して使ったことも、 そんなときには、誰かが助けてくれれば楽なのに、とも思う、 でも、誰もいなくても、自分はいるじゃないか。 そこで自分が諦めてしまったら、何も動かないし、 切り立った崖の迫るこの奥深い山を脱出するには自分で何とかしなくちゃならない、 それも、自分は心地良い。 完全に、全ては、自分次第なのだから。 僕は、そういう孤独が好きだ。 日常感じる孤独感というのは、決して、個人の孤独には根付いていない。 むしろ、孤独ではない、という関係性の上に成り立っている、 例えば、異国で言葉が上手く喋れないとか、 知らない街で誰も知人がいなくて、しゃべり掛ける言葉がないとか、 イベントで手持ちぶさたになって、音楽もさして面白くないとか、 本来あるべき、または希望する関係性が上手く成り立たないときに感じる孤独、 それは正確に言えば、孤独みたいなもの、孤独感であって、 孤独そのものじゃない。 自分だけしかいない状況ってのは、そんなに窮屈なものではないと思う。 きっと、世の中には、僕よりもっとずっと重い心を抱え、 ずっと深刻な孤独感に苛まれる人や、 本当に孤独である人も多くいると思う。 でも、それは、孤独であることが悪いんじゃない、孤独は悪さをしない、 重い心の内容や、悩みのせいに違いない。 あまり、孤独を責めないでやってほしい。 自分のことを、見てやれる瞬間なんて、実際問題、そうはない。

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