COFFEE

朝起きて、コーヒーを淹れる。 いつの頃からか、朝の習慣だ。 砂糖なし、ミルク多め、が好み。 『コーヒーが男性ホルモンを減らす』 つい最近、そういう記事を目にしたので、 多少不安ではあるが、好きなもんは仕方がない。 精子減ってたら、ごめんね。 ん?誰に言ってんだ? 目覚めのコーヒーで目を覚ましたら、そのまま2杯目。 きちんといつも通りに起きれば、 2杯目は煙草を吸いながら、メールに目を通しつつ飲まれる。 大体それを飲み干した当たりで時間。出勤。 寝不足の時、朝飲めなかったときは、出勤前に缶コーヒー。 飲んでから覚醒作用が起きるまでに、30分くらい掛かるそうなので… なるべく早い対処が必要。 眠くなってから飲んでも遅い、と。 引っ越し中に前のコーヒーメーカーが壊れてしまって買い換えたのだけど、 正直まだ、コーヒー量と水の量とのバランスをつかみ切れてない。 日によって薄かったり濃かったり。。。 朝は、胃腸が弱いことも考えて、コーヒーと牛乳を 50/50 で飲むので、 多少濃いめの方がいいんだろうな… 今日の朝は失敗して、薄いコーヒーが大量に出来てしまった… アレって煮詰められるのかしら?

続きを読む

ひげ。

何ヶ月かのばしてたんだけど、 なんとなく剃ってみた。気分転換。 確かに、ちょっと爽やかっぽくはなったけど、 いかんせん顔が太ってるので、微妙。 うーむ。 昔友達に『何で伸ばしてるんだ?』ときいたら、 『顎のラインが見えないように』と言っていたが、少し納得。 まぁ別に、ほっとけばそのうち伸びるし。ね。

続きを読む

エルニーニョもどき

今年の異常気象… 具体的には、太平洋高気圧のがんばりと、黒潮の蛇行、は、 『エルニーニョもどき』という気象現象が原因だと言われている。 もどき? これは、山形俊男東大教授(気候力学)が名付けた現象だそうで。 通常のエルニーニョが、『チリ沖の水温が上がる』という現象であるのに対し、 もどきは太平洋中央部の水温が上がる現象。 エルニーニョと同じくはっきりとした原因は分かっていない。 このせいで、発生する台風が全て高気圧を避けて迂回するため、 いつもなら、房総半島当たりをかすめるような台風も、 九州から上陸して本州に沿って進むという特異な進路を見せている。 8月中旬には収まるという話だったんだけど… 台風の進み方見てると、まだまだみたいね。 太平洋高気圧が張り出してる限り、暑いしねぇ… それでも、最近は、気温こそ高いけど、 風のせいか、湿度のおかげか、日中は涼しい。秋には向かってるようだ。 今年は地震もあったし…天災の多い年だな…。 でも、一発デカイのが来るより、小出しの方がまだいいか。 これ以上何もありませんように。 …にしたってやっぱりこの名前はどうかと(笑) エルニーニョに似てるってのはわかりやすいけどさー

続きを読む

Archives

nobodyplace.com を立ち上げて以来、 旧サイトはARCHIVE(倉庫)という位置づけになっているけど。 中には、結構、自分で好きな文章もあるのです。 きちんと、言いたいことを言えた、と自分で思えるような文書、ね。 非常に思い出深い文章とか。 そう言った文章を、折を見て、こっちにピックアップしていこうかな、と。 向こうも、少し見づらく…なってるからね… (そのうち、こちらへ『Archive』という形で移築する予定でいますが) その先駆けとして、Column に収録されていた、 『 『自分は自分』という考え方について。 』 という文章をピックアップしてみました。 この文章で書いたことをいつまで『正しい』と思うのかは分からないけど、 今現在はまだ、正しいかな、と思えるし、それ以上に視点が結構面白いと。 (自分で言うな、と思うけど) まぁ、はっきり言えば、『焼き直し』なんですけどね… そうしたこともしていこうかな、と。 別に、昔はだめで、今はよい、わけじゃないしね。 昔の間違いを今の自分が指摘するってのも面白いと思うし。 まぁ…楽しいのは俺だけっぽいけど(苦笑)

続きを読む

Diary…?

Diaryの性格が少しづつ変わって来て。 日常生活の延長で考えたことが綴られつつあります。 本来は、時間軸に沿った記録だったのだけど。 『僕』がそう望むことだし、特に是正はしないし、 そちらもたまにチェックしていただければ、と思います。はい。

続きを読む

男子ハンマー投げ。

一度書いてしまったので、きちんと、結論まで書いておかなければなるまい。 アテネオリンピック男子ハンマー投げは、 ドーピング違反の嫌疑を掛けられていた金メダルのアヌシュ選手が 再検査を拒否したため、失格処分となり、代わって室伏選手が金メダルに輝いた。 僕は以前のMUTTER(→ アヌシュ選手)で、 『限りなく黒に近いが、アヌシュ選手を信じたい』 と書いた。僕は信じたかった。 しかし…彼はそれを認めることからも、ひっくり返すことからも逃げた。 ただの『ドーピング違反』というよりも、もっとずっと、重い罪を犯したと考えている。 僕の記憶にある、もっとも衝撃的なドーピング違反と言えば、 ソウルオリンピック、100メートル男子決勝で、 恐るべき記録を叩き出して金メダルを獲得したベンジョンソン。 彼は競技後の検査で違反が発覚し、メダルを剥奪され、永久追放処分になった。 最近になって復帰が認められ、いくつかの競技会に出場したりしていたが、 結局は大した成績も残せなかったようだ。 まず、前提として、ドーピングというのはばれなければいいというものではない。 競技者の健康、そして競技の公平さを維持する、最低限のラインなのだ。 だから、競技者自身、またはコーチによって、薬物を服用した場合、 それを考えた時点で既に罪であり、検査で引っかかることは自首と同義なのだ。 不注意で風邪薬を服用した…などということを除けば、 全て、確信犯であり、事故などということはあり得ない。 ドーピング違反を世界から無くしていくためには、 ─一般の犯罪と同じように─2つの方法しかない。 つまり、競技者のモラルを向上させること、 そして、検査を充実させてそのような競技者を競技から排除すること。 競技者で有れば、誰もが記録を伸ばしたい、と考えているだろう。 しかし、もし検査がザルで有れば、ドーピングをしていない競技者に対して不公平を生じさせる。 (それでも室伏当たりは『関係ない、自分がどうできるかですから』とか言いそうだが) だから、モラル向上の一方で厳しい検査、措置はかかせないのだ。 ドーピングするのは勝手だが、競技に出すわけには行かない、ということだ。 (ドーピング検査が厳しくなって以来、ハンマー投げの記録が世界記録に迫ることすらない) アヌシュ選手は、そうした反ドーピングの活動自体を無視している。 ドーピング検査というものの、価値を、失墜させた。 それはすなわち、多くの競技者が、 『ドーピングのどこが悪いんだ?』『あいつがしていてなぜ俺は悪いのか?』 という思いを抱かざるを得ない、ということだ。 地元ハンガリーでは、未だにヒーローとして扱われ、 ハンガリーオリンピック協会も結局は彼を擁護している。 挙げ句の果てに、競技前後のサンプルが別人のモノだったのは、 オリンピック委員会のミスだ、などと言い張っている。 再検査の結果、白で有れば、問題はない、なのだから、素直に受ければいいだけのことだ。 ドーピング検査が好きな選手なんていないだろう… 試合前のもっとも集中したい時間でさえ、 求められれば、検査官の前で尿を取り、提出し、検査を受けなければならない。 だが、それはアヌシュ選手だけがやっているわけではない。 どの選手も、同じ条件で、厳しい検査を受けている。 たとえ場所が警察署だろうと…拒否していい理由にはならない。 それが競技の公平さ、ということではないのか。 彼を、アスリートだと思って、僕は信じていたが、 彼はアスリートではなかった。 己の名声が、そこまで大事なのか? 真のプライドをどこに置いているのか、アスリートとしての見識を疑う。 そのような選手は、帰ってこなくて良い。 ハンガリーでぬくぬくと老後を暮らしなさい。

続きを読む

『自分は自分』という考え方について。

僕の文章を読み返すと(以前言ったとおり僕はかなりの愛読者だ)、『自分は自分』とか、 『やっぱり俺は変わらない』とかそういう表現がよく出てくる。 この表現、実は一般的にとらえられる感じと、僕の中で持ってる印象とが、微妙に違う。 大げさな言い方をすれば、“何をもって『自分』とするか”という部分で、 僕と自分以外の人との捉え方にギャップを感じる、 それはすなわち、誤解される言葉遣いだということ。 例えば、僕が子供の頃、椎茸を嫌いだったとする。 大人になって、改めて食べてみたけど、やっぱり好きになれない、俺は俺でかわらねぇなぁ…なんてことを、 『やっぱり…』という言葉は言ってるわけではないので。 すごくわかりにくくて恐縮なんだけど、人間の中にある考え、好き嫌いであったり、道徳観、人生観であったり、 いやもちろん女の好みだったり、好きなセックスだったり…というのは、ある意味で、『データ』に過ぎない、と思う。 そういうデータは、その人自身を表してもいるけど、でもその人自身ではない。 僕が思うその人自身てのは、その人が、どんなセンスでものを選ぶか、という部分。 僕は恥ずかしいんで、街中で手を繋いで歩く、なんて本当に稀なことなんだけど、 僕の言い回しで言えば、それはあくまで、データに過ぎなくて。 例えば、ある時から突然、手を繋ぐのが好きになり過ぎて恋人に引かれたとしても(苦笑)、 それは、そこに至るまでのプロセス、 たとえば、『恥ずかしい』という感情より、そのとき愛情を表現することを優先する、 (もちろん頭でそう思ってしてるわけではないよ、感じたこと)、 という感じ方のプロセスの変化が見た目の変化を引き起こしてる。 そういう判断基準の変化の仕方、そのプロセスがそう変化した原因については、 あくまでたとえ話だからわからないけど、 そういう選択をして、自分で納得できたとき、それはやはり自分としては、極めて『自然なこと』で、 僕の中では、ちっとも変わってない、ということになる。 そういう選択をさせた部分が、自分、ということ。 つまり、曖昧な言葉で言えば、自分というのはつまり感性。 どんな言葉を選び、どんなリズムで話すか、というのはその人の感性。 感性が変わらなくても、ベクトルが変われば、言葉として出てくる内容は変わる…あー、わかりづらいな。 上手く説明できない、大雑把に、簡単に言えば、 『変わらない』ということが、『考え方を変えない』ということではない、ということを言いたい。 嫌いなものを子供に食べさせるとき (あいにく僕は嫌いな食べものが出来たことがないので実感が伴わないかもしれないが)、 『椎茸はね、栄養があって体にいいんだよ』とか言っても多分、子供は、うんと言わない。 だってまずいんだもの、って言っておしまい。 わからせるためには、彼の感性が椎茸を受け入れるってことを教えてあげる、 つまり例えば、おいしい椎茸とか、美味しい調理の仕方とか。そういうことが大事なんだと思う。 きっと、嫌いなものがある人にはわかるんじゃないかな? 決して、彼の中で何かが変わったわけじゃなく、気が付いただけ、というか… 彼の感性に沿って椎茸なら椎茸、人参なら人参を見れるようになった、そういうことなんだと思う。 (もちろん、年をとって多少苦いものも好きになって(=感性が変化して、結果気づいて) ピーマンが好きになる人もいるだろうけど) 栄養がないから、って嫌いになる子供がいるとしたら…どうかしてるよ(笑) 僕が、冒頭のような言葉を繰り返すとき、には共通点がある。 振り返ってみないとわからない部分が多いけど、多くの場合、自分を見失っているとか、 変わるべき、と思っているとか、そんなとき。 でも、たとえ、アルコール中毒になって荒れた生活をしても(=それまでの自分と全く違ってしまっていても)、 街角でふと見た桜に心動かされることはあると思う。 周りに与える印象や、実際の自分がどの程度変わっているかは僕にはわからないが、少なくとも、 僕が大事だと思っていること、言葉の選び方や、感受性や、そういったことが、 少なくとも自分の知っている自分と繋がっている、そういうことを感じたときに、 あぁ、変わったように見えて、やっぱり僕には僕の感性がある、と実感する。 それが、変わらない、ということ。 人間には、変わってもいい部分と、大事にしなくてはいけない部分とがあるのだと思う。 しかし、その二つは確かに存在しているにもかかわらず、線引きは曖昧で、わかりにくい。 僕らは、自分の大事なものはなんなのかを、常に試行錯誤し、探しながら生きてるんじゃないか? 少なくとも、僕はそうだ。 僕にしたところで、しょっちゅう見間違う。 手を繋がないことが、デートするときに3番目くらいに重要だったこともあったかもしれないが、 今の僕に言わせれば、そんなことは些末なことだ。 そもそも、相手を好きだと表現するためにデートしてるのに、絶好のチャンスを棒に振ってどうする?と。 ま、それはたとえ話で、実際には相手のある話ではあるけど。 時に、MUTTERという『ごった煮』から『フカヒレ(=重要な要素)』を探して欲しいと考えてる僕も、 不親切きわまりないけど、 僕という人間だって、変わるんだ。 でも、変わらない部分もあって、それが今僕が大事にしてる部分だということだ。 付記。 MUTTERにおいては、愚痴や独白でない限り、言葉の定義まで細かく説明しない。 日記調のこともあれば、論文調のこともあるけど、僕は多くの場合、『散文詩』だと思ってる。 だとするなら、言葉の定義についていちいち説明するのは興ざめだし、 なるべく少ない言葉で、なるべく深い何かを読む人に与えることが、究極の目標、ということになる。 だから繰り返し言ってきたけど、僕の考えを知るのには向かない、のだ。 感性、についてはわかってもらえると思うけど、所詮一方的な言葉なのだから、 具体的なことは会って話してみない限りわからない。 読む人は『ニュース』とか、『イッペイ新聞』みたいに読んでるんだろうけど、違うときもある。 詩というのは基本的に…感性で言葉を選び、言葉の間にも感性を詰めて、人の前に差し出すものだ。 でもいったん差し出したあと、読む人が何を感じるか、までは規定しない。 別れの詩があっても、特に定義しない限り、恋人なのか、友人なのか、愛犬なのか、 それを決めるのはあくまで読む人間なのだ。 それらを読んで、何を感じるか、ということに関しては、あなたの感性に著作権がある。 2004.04.23 2004.04.24[改訂] 2004.06.10[改訂] 2004.09.06[再掲]

続きを読む

女の勘は怖いか?

Referenceは明らかには出来ませんが。 多少トラックバック気味に。 女の勘は怖いか? 一般的に、女の勘は鋭い、と言われる。 特に、反論も、弁解もない。否定はしない。 ただ、勘の鋭い鈍いというのは、性差よりも個人差により、分野も偏る。 意図に正確を期すので在れば、 こと恋愛に関して女の勘は鋭いことが多い。 (なんちゅう歯切れの悪い言い方だ…) 鋭いからこそ、怖い、のだが、怖い理由はもうひとつある。 一般的に、男より女の方が勘を強く信じる。 信じることは、それだけで十分なエネルギーを生み出す。 経験上、女の理屈は、一部の勘と、会話の中の追尾によって成り立つ。 『勘』というモノによって事前に立てられる予測の正確さに関しては そんなに男女差はない、というのが僕の率直な感想だ。 実は女もそこはよく分かっている。 頭にあるのではなく、体で知っている、だから、 けして予測をすぐに口にすることはしない。 あくまで、言動のとっかかりに使うだけであり、本当に恐るべきは、 その予測の使い方に関する部分だ。 アホな僕ら男性は、出発点においてそう大差ない場合であっても、結果的に敗北を喫する。 (おおかたの場合は、予測を軽々しく扱うことから来る準備不足によって、 開戦時に既に敗色濃厚なわけだが) 実際、慣れてしまえば、考えてることを当てること自体はさして難しくない。 自分にも出来るわけだから、それ自体はさして怖くもない。 怖いのは、その後の、狩りの仕方、だ。 周到な準備の上での、チームによる『巻き狩り』もよく行われる。 僕らに対抗手段はないのか? なんにせよ、一番重要なことは、やましいことをしないことであり、 次は、痛くもない腹を探られるようなことをしないこと。 ん?あまりに弱いか? じゃ、あ、僕らに出来ることはもうそんなに残されていない、 そうだな。僕なら逃げるね。尻尾巻いて。 罵倒されたあげくに別れるくらいなら、 始めっから戦わない方が疲れなくて済む。 まぁ…相手に情が移っちゃってるとなかなかそうはいかないんだけどね… 結論。 勘が怖いというよりも、むしろ、 女ってのは根本的に怖いもんなのよ。敵いっこないって。

続きを読む