「自由」と「寛容」

「管理されたくない」。

これは僕が根源的に持っている欲求であって、親切心だろうが老婆心だろうが、僕を管理しようとしてくる組織や個人とは基本的に相容れない。相手の考えが正しいかどうかとは無関係に、僕の行動や持ち物を勝手に何とかしようとしてくることは全く受け入れられない。これは僕が18歳で実家を出た大きな理由であるし、それからずっと一人暮らしだった理由でもある。僕は僕の生活を自分で管理したい。他人に迷惑を掛ける場合を除き、僕は僕が考えたように生きたい。


もちろん社会の一員であるから、全部俺の言うとおりにしろ、とまでは言うつもりはない。電車は降りる人を待ってから乗るし、道ばたにごみを捨てたりしないし、暗くなれば自転車のライトを付ける。社会のルールには不合理なこともあるけれど、それが誰かのためになっているのであれば喜んで守る。

でも「誰かの言う正しいこと」を無条件に受け入れるつもりは無く、その接点において交渉を設けて、「このラインだったら僕たちは上手くやっていけるよね」という条件を見出しそれを守ることを、代替的に「僕が考えたように生きる」ことにしている。だからそうして作ったラインを無造作に侵されることに対しては、その内容の是非とは無関係に、抵抗する。このラインは僕以外の人間が勝手に変更して良いことじゃない。

僕が何度も妥協して策定されたラインならなおさらだ。ラインを侵した上に再び是非論を投げかけるのなら、それは意見の押しつけに感じる。僕の妥協をより引き出そうとする「交渉テクニック」に映る。ライン策定の交渉は既に終わっているのだから、今、ラインを再設定する必要はない。


僕はこんなことを考えて、多分高校生くらいから、20年以上を過ごしてきた。この考え方や感じ方について議論があっても良いけれど、これは僕の根源的な欲求なので否定するつもりも変更するつもりも無いし、それを越えて管理しようとするのであればそれ以上その組織や個人と接点を持つことは出来ない。

特に個人に対しては、お互いに必要なことを十分話合った上で、「あなたが自由にやるのを許すから、僕も自由にやらせて欲しい」というのを基本的な条件にしてきた。そしてそれは「あなたが僕を管理するなら、僕もあなたを管理する」にはならない。僕は別に誰も管理したくない。自分が自由にやらせて貰っているなら、相手の行動に多少不合理なことがあっても目をつぶる。それが僕が考える「寛容」だし、僕が要求する「自由」だ。

もちろん相手のすることが本当に不合理だと思うこともある。「管理したい」と感じるような場面だ。その場合には、話し合いを持って、相手の感情と合理性のバランスを持って「ライン」とする。最終的にはルールの合理性よりも、相手の感情の方を少し優先する。それがどんなに優秀なビタミン源であっても、ブロッコリーが嫌いな人に無理に食べさせたりはしない。無理に食べさせるより他に、ビタミンを摂取する方法はいくらでもある。そしてもちろん、決まった以上、ラインはきちんと守る。それ以上何も言わない。


より広い意味で捉えれば僕だって無造作に管理はされている。国とかGoogleとか。でも自分があずかり知らぬところで管理されていても、それは別に気にならない。これはそういう道理の問題では無くて、僕が生きていく上でどう感じるか?と言う話だからだ。理屈じゃなく、感情の話だ。

僕にとって自分で自分のすることを決めるのが「自由」であり、人の「自由」を受け入れることが「寛容」だ。この2つは僕にとって最も基本的で、最も大事にしていることと言って良い。その2つを侵されることを僕は望まない。僕はこれまでも、これからも、この根源的な欲求、感情を譲ることは出来ないし、それに従って生きていく。