ほとんど暗渠と側溝でしかない堀川に蛍の幼虫放流して「夏に蛍を見ましょう」ってやってるの、子供喜んでそうだし活動として文句付けにくいけど、個人的にはただの虐待だと思ってる
— いず (@nobodyplace) 2018年6月2日
ちょっとねえ、地元の人たちが一生懸命やってることなんで今まで言いづらかったんですけど、でも実は毎年思ってます。京都の堀川って「川」って言ってますけどもうね、長いこと「川」じゃないんですよ。もともと運河として開削され、造営時(西暦800年頃)で12メートル、江戸時代後期でも9メートルの川幅がありましたが、戦後の市街地整備などを経て今出川~御池間以外は暗渠化され、昭和三十年代には水源を失い、以降はただの掘になりました。水流が復活したのは琵琶湖疎水の分流が流された2009年のこと、つまりここ10年のことです。
(以上「花の都 大路・小路」より)
水の流れる現在の堀川は確かに市民の憩いの場となっていて、意義のある事業だったなとは思うのですが、それでもこれは自然の川ではなくあくまで運河です。やごの放流は、流域で唯一「自然」がある一条通から今出川までの長さ200メートルほどの林で行われていますが(林と言っても幅1メートル深さ20センチほどの流れの両側に1本ずつ木が生えているような場所)、そこからすぐ北側は旧小川の暗渠に、すぐ南側はコンクリートで固められた側溝になっており、とても生きものが生息する環境とは言いがたいです。
そんな場所に生きものを放流することが果たして良いことなのだろうか。成虫になって我々の目を楽しませてくれると言うことは、そこまで成長できる環境(餌など)はあるということではあるのだろうけれど、でもなあ。そこで繁殖してこの狭く細長い雑木林にいついてくれるのだろうか。僕が想像力豊かすぎるだけなのかも知れないけれど、もし僕がここに放流された蛍だったとしたら、自分の運命の先の細さに絶望すると思うんですよね。まあ蛍にはそんなことはわからないだろうけれど。
水辺で夢をかなえる活動が進行中 町中でホタルが見たい!|リビング京都
改修工事の時に、行政も住民も皆で何度も川のあり方を話し合い、考え続けて出来上がった川。愛着があります。これから育つ子どもらには、堀川のホタルを通じて、都会の中でも自然を取り戻していけることを体験してもらえたらと思っています。そして、川を大切にする気持ちをもってほしい
そうなんですよねーその気持ちや活動の意義はすごいわかるんですけど、でも堀川でそれをやられても。メンテナンス性を考えると、固めてしまうほかないんだろうとは思いますが、現状あまりに側溝過ぎて、すぐ側が山で自然一杯の北白川とは違い、街中の広い通りのすぐ側にある凹みなんですよね。堀川って。もうちょっとなんとかなって欲しい。
ほんとに個人的な感情なので、堀川でのやごの放流反対とかそういうことではないんですが、ただあの場所に生きものを放流するということ自体に罪悪感を感じてしまうんですよ。幼虫を放流した。育った。蛍が観察できた。良かったね。じゃあまた来年放流しましょう。生きものと接するってそういうことだろうか。小学校の片隅にあるビオトープだってもうちょっと生態系がきちんとしているんじゃないだろうか。そういうことを子供に質問されたら、大人達はなんて返しているんだろうか。僕はひねた子供だったから、多分その場にいたらそういう質問をしてしまっていると思います。まず、生育環境を整えるのが先じゃないんですか?って。
蛍が成虫になったことを綺麗な川の証にするのではなく、綺麗な川にしてから蛍を放ちたい。そして小さくても良いから繁殖できる環境を整えたい。そういうことなら賛同できるし、そのために土を入れるとか植林するとか中途半端にある公園を潰してビオトープにしたいとか、そういうことなら手伝いたい。こういう環境を作るための活動をするというのであれば。
ホタルの生態のページです – 京都ほたるネットワーク
でもただ放流するのはちょっと。そういうことじゃないんじゃないの。花火じゃないんだからさ。生命なんだよ。
ちなみに
明治、大正期の堀川ってこんな感じだったらしいです。(京都市消防局より)
運河って言うから今みたいなやつの少し水多い版かと思ってたら、今と全然違うなあ。橋は中立売らしいですが、橋の向こう側には土手も見えるし、すごく川してる。こうなれば良いと思うんですけどねえ。でもそういう川にはしないっていうのが堀川水辺環境整備事業を通して行政と住民が話し合って決めたことだから、それは尊重したい。いろいろあるもんね。水害対策とか虫対策とか。しかしそのことと、蛍を望むこととは、やっぱりどこか矛盾している気がします。僕はあんまり好きじゃない。