熊本、大分の地震で亡くなられた方、被害に遭われた方に心からお見舞い申し上げます。
連続して起きた地震の話を見聞きして、地震を恐れる声をここ京都でも何度か聞きました。水や乾パンを買っておかなくちゃという声も。恐れる気持ちはもっともだし、災害への備えをしておくことは正しいことだと思うのですが、僕の中にはいつも静岡県ですごした18年間で培われた思いがあります。それは上手く言葉に出来ない何かなのですが(でもきっと静岡県民の人なら解ってもらえると思います)、それが培われるもととなった環境について書くと、静岡県民は、東海地震の可能性について言及された1976年から40年の長きにわたって、明日にでも大地震に見舞われ津波ですべてを失うかも知れない、そしてそれは近い将来必ず来る、と脅され続けているのです。静岡県ではそのために綿密な準備をしていますし、県民それぞれが災害時の行動について把握しておくよう求められています。避難訓練で少し気を抜いただけで叱責されるというのは、「ちびまる子ちゃん」に出てくるエピソードですが、実話です。マジです。静岡県とはそういうところです。静岡県庁は、日本の他のどんな行政施設よりも地震に対して堅牢です。週末の夕方、静岡県沖のプレートが今週何センチ動いたか、ニュースで報じられます。静岡県とは、そういうところです。
そういうところで育っていくと、地震に対して特別大きな恐怖を感じないようになります。別に地震を軽視するわけではありませんし、実際に起き、被害を与えている地震を過小評価するのでもありません。もちろん、被災地や被災者の方々を軽んじるつもりもありません。そうではなく、地震とはそこにあるもの。必要以上に恐れない。自然との接し方には、ある程度以上準備したらあとは相手に任せるしかないという部分があります。事前に防げることは対策しておくけれど、その対策を必要だと思う心は、恐怖心から出ているものであってはいけない。それでは、自然と相対すことが出来ない。地震を恐れることなく受け止め、今必要なことを冷静に積み重ねていくことが、結果的に地震に対する備えになります。まあなんというか、ジェダイの心構えに似ています。
つまり、静岡県はジェダイ・テンプルだったんだよ!
Ω ΩΩ< な、なんだってー!!
いや違う、茶化したいわけじゃなくて、ほんとに真面目な話を書いてるんですけど、備えようとすることは恐怖することとは違います。恐れることは、人間ですから仕方がない。でもその恐れることをきちんと受け止めて、恐れる自分を受け入れて、その上で、何が必要かを考えること。恐れに突き動かされるのではなく、見て、考えて、必要なことをする。東日本大震災以降、恐れに突き動かされる言動を多く見聞きしていますが、それで物資や施設の準備をしても、心が準備出来ているとは言えません。地震と共に生きる。静岡県民以外の人と、こういう考え方を共有出来るのか自信がありませんが、地震多発地域に生きるというのは、そういうことだと思います。恐れない。見つめる。考える。