明治維新以来新しいものを取り入れないと取り残されるという危機感が常にあって、その癖歴史や伝統に変なプライドを持っているのが京都人だけど、わたしはそんな京都が大好きですよ
「危機感」。「新しいもの」。
僕はそれは誤魔化しだと思っている。始めはそうでは無かったかも知れないが、今ではただの言い訳でしかないように思える。古い建築物を新しい鉄筋コンクリート建築で塗り替えていくことが、それを「新しいものを取り入れる」と称することが、それが今はただの言い訳にしかなっていないのだと言うことを言っている。
まず第一に、「新しい」というもの、それは文化として日本全国にいくらでもあるものでちっとも新しくない。全く新しくない。見飽きていると言っても良い。そんなのは誇れる新しさでは決して無い。第二に、その街で「古都京都」を名乗るのは無理がある。日本全国どこに出しても遜色ない街に古都らしさなど見つけられない。第三に、「取り残された」部分で食い扶持を稼いでいるのに、危機感という言葉は嘘くさい。もし「取り残された」部分がなかったら、本当に京都は歴史に取り残された都市になってしまう。「取り残された」部分があるからこそ、取り残されずに済んでいるという事実を認めない。
「取り残された」部分を必死で守っているのは、ごく一部の志のある人たちだけだ。一般市民にそんな気がある人は少ない。それが街の変貌の割合として表出している。僕が憤っているのは、経済的な理由であっさりと街を変えていく人たちの意識の低さだ。経済的理由を解消させられない京都市や京都府の方針だ。力になれない僕らの非力さだ。街を歩いて欲しい。京都人は自らの手で京都を殺している。2012年、家の近所だけで全部で6軒の新しいビルが建った。そのうち2軒は明らかに保護されるべきレベルの建築物だった。今は方や駐車場、方やどこかの会社の自社ビルだ。それのどこが新しく、それのどこが危機感をフォローするのか聞かせて欲しい。それによって京都の何が救われたのか。
そんなものは誤魔化しだ。経済的合理性による活動に、「新しいものを常に取り入れる」という誤魔化しのタグを付けるのを止めさせるべきだ。そんなのはちっとも新しくないよ。もちろん古くもなく、とりたてて価値も無い。それなりの地方都市に掃いて捨てるほど落ちてる事象だ。「新しいものを取り入れている自分」を客観的に見つめ、そんなのは誤魔化しだと理解すべきだ。そんなの、ちっとも新しくないよ。そんなのちっとも「京都人らしく」ない。僕も大好きな京都人はそんなのでは無いはずだ。京都人ならもっと上手い方法を見つけるはずなんだ。醜悪なひさしをマンションの一階に付けて「景観を乱さない」などと嘯くような、そんなくだらない誤魔化しはたくさんだ。