「人を見た目で判断するな」という言葉に対して思うこと
誰の発言と言うことも無くて、かつて自分も考えたであろう良くあるセリフなんですけど、この間「自分がハイティーンの頃にTwitterがあったら」とか考えてたその流れでつい浮かんだので。まぁよくありますよね、そういうセリフ。「人を見た目で判断するな」と言うね。
で、何を思ったかというとですね、自分の好きな格好をしている人がそのセリフを言ったら終わりだなーとか。
自分が好きな格好をしている人以外がそんなセリフを吐くとは考えられないので、完全にセリフに対する否定になりますけど、僕の考えでは自分の自由を通すと言うことは、相手の自由も通すと言うことだと思うのですね。自分の自由は通すけれども相手の自由は制限する…というのであれば、自分の自由を保障する前提がおぼつかないでしょう?「他人に迷惑を掛けない範囲で人は自由に行動できる」のだとしたら、その権利は相手にもあって然るべきです。
翻って先ほどのセリフのシチュエーションを想像してみるに、少し常識から外れた、もしくは過激な、ないしは軽薄な格好をしていた人間が、その格好相応なステレオタイプをもたれたことに対し、俺はそんな人間では無い!と憤るということだと思うのですが、自由な格好をする権利が片方にあるのであれば、もう片方にはそれを自由に受け取る権利があって然るべきでは。発信者が受信者に印象を押しつけるのは、それはもう自由では無いよね。
僕自身はなんつーか昔から良く誤解される人間でありまして、過去担任になってくれた教師の半分は、1年の前半くらい僕のことをとても誤解して過ごし後で一方的に謝られるという有様でした。なんですかね、顔つきですかね。よく分かりませんが。だから差別とかステレオタイプとかそういうことを良しとしたくは全く無いのですけれども、今になって思えば、一連の誤解は何も無いところから突然生じたことでは無くて、僕自身の照り返しというかさ、「僕はそう見られている」という現実だけがあったんだなぁと言うね。誤解はそれを受け入れない、ないしは受け入れたくないのに解って貰おうとしなかったことで生じたんだと思うのです。
人が人を見た目などを主要因として自由に判断することは、それは自由で、であるからこそ僕は僕のしたいようにそこにいられるのであって、もしその判断を修正したいのであれば、それ相応の努力を要するということなのだよねと。黙っていて何にもせずに見た目にとらわれることなく正しく俺を判断してくれというのは…正直、無理ゲーだよね。もしくは傲慢。
自分はとても傲慢だった、もしくはとても若かったのだ、と思ったのでした。
まぁ、それ(若い頃)もこれ(今)も好きなんですけどね。存外に。