せい‐ろん【正論】
道理にかなった正しい意見や議論。「―を吐く」
正論というのは、文字通り正しい論。道理に適った、合理的な、そんな論を指すことが多いのですが、裏の意味として「現実を見ていない理想論」というような意味合いでも使われます。
A「そんなにお金が欲しいなら働けばいいじゃない」
B「それは正論だけど、実行は無理だよ」
でも僕は思うのですよね、この「正論」の使用は誤用なのではないかと。
もしそれが「現実を見ていない理想論」なのだとしたら、それは道理から外れているべきです。例えばこのBさんには付きっきりで面倒を見てあげなければ行けない家族がおり、家を空けることが出来ないと言う事情があるのなら、A君の発言は道理に適っていない、自分勝手な論理です。Bさんはそれに対して「正論である」と認めてはいけません。それは「正論」などではない。
一方でBさんが心身共に健康な青年であり、労働を行うに当たって何不自由ない身であるのであれば、A君の忠告は正しく正論でしょう。ただ働きたいだけであれば世の中には腐るほど仕事はあります。まぁその仕事は時給700円かも知れませんが、仕事に違いはありません。無為に過ごしている時間を1日2時間そこに投じるだけで、月に4万円ものお金が稼げるのです。実家住まいなら自分の食費とおこづかいくらい賄えるでしょう。
「正論であるが現実的ではない」というのであれば、
- その論説は「正論」ではない
- 正しく「正論」と言えるのはこの論説である
ということを述べなければいけません。
世の中にはそうした「正論」ではなく、実行できないことの言い訳としての「正論」が幅をきかせすぎているような気がします。論理に沿った議論を拒絶し、あなたの設定したルールでは発言しないと言う意味での「正論」。それが「正論」であるかどうかさえ議論を避け、耳を手で覆うような「それは正論だけど」になんの意味があるんだろう?
例えば、今は現実を見つめたくないんだ、そういうときもあると思うんです。僕にもありました。そうだなぁ…23歳から26歳くらいまでかな…でもそういうときは、「それは正論だけど」と逃げてしまうのではなく、今はそういう言葉を受け入れられないということを受け入れるべきかと。あなたにとって正論だと思うけれど、今の自分には正論ではないという論点があっても良いはずです。
そしてそれ以外の、ただ単に受け入れたくない場合には、それが「正論」であるかについて議論すべきです。安易に相手が正しいなんて認めちゃダメでしょう?仮に相手が正しいとしても、「それは正論だけど」と言う言葉で論点をぼかしているといつまでも先に進めない。相手が正しいと認めるのなら自分の誤っている点も認めておくのが筋かなと。
最近そんなことを思っています。