「恥」について – 「わからない」「出来ない」を如何に受け入れるか

村上龍が『愛と幻想のファシズム』の中で提示していた「恥」という概念について、初めて読んだときからもう何年もずっと考え続けているのですがいまいちよく解っていません。どうやらただ「恥ずかしい」と思うことではないようだということと、能力が劣ることを指しているというわけでもないようだということは解っているのですが。


ただ最近、仕事中に上司の表情を見ていて、ああこういうのを「恥」と呼ぶのかなというのを感じるようになりました。


なんだろうなあ、ストンと落ちているわけではないので上手く言葉では説明できないのですけど、今までワンマンで会社を引っ張ってきた経営者が、自分のやり方を否定されたり自分だけが解らないようなことを話されたりしていて、何とか話題にコミットしようと虚勢を張ったり、自分だけが解る領域のたとえ話に引き込んだり、そういう努力をばっさり行かれたりしたときに浮かぶ表情というのはなんというかもの凄いものがあります。率直に言うと、作り笑いがプライドでぐにゃっと歪んでいてとても醜い。

腹が立つでもなく苦々しくでもなく、恥ずかしいでもこの野郎でもなく、そういうのが全部詰まってない交ぜになって、どう考えても自分の方が置いて行かれてるけどそれを認めるわけにはいかないしでかく出ておかなければ今後に差し支えるし、合理的でなくても意地をはるけど、ちくしょうこいつ解ってるはず無いのに偉そうなこと言いやがってでも痛いじゃねーかいや弱いところを見せるわけには…みたいなシチュエーション。


いや…上司をどうこう言いたいんじゃなくてですね、多分僕もああいう顔をしてるんだろうなぁと言う予感があって。


自分で言うのもどうかと思いますけど、しょうもないプライドを捨てきれない人間ですから。僕ってヤツはね。解らないとか出来ないとか素直に受け入れられないんですね。意地張ったって仕方が無くてどうやらこの道では目的に近づけなさそうだから次の道に行こうってすれば良いだけなんですけど、なかなかそう出来なくて、ある程度戦ってしまうんですね。最悪なのはその戦いで勝ちかねないと言うことで、そこで勝ってしまうと誰も幸せにならないし何も良いことがないという。その必死になって勝とうとしている顔は多分、酷い顔をしているんだと思うのですよ。

そういうことに気付いてから、最近は少しずつ自分ができないことを具体的に考え伝えるようにしています。その件についてここまで解っていてここが解らない。この件についてこうやってここまで出来たけど、これが出来ない。出来るためにはこういうことが必要でそれにはこれくらい時間や費用がかかる。自分では出来ないのだと伝えるのは躊躇もありますけど、それは目的を諦めたことにはならないから。


なんだろうな、そういう、目的を見据えたことではなしに、自分の体裁や意地を優先させて必死に弁解しようとする姿勢がきっと「恥」なんだろなと今は少し思います。自己保身のことを考えるからそうなるんであって、目的と自分とを正しい距離感で位置づけていればそんなことにはならないだろうと。大事なことは何をするかであって…自己保身なんかどうでも良いよね。いや僕にとってはどうでも良くないのだけど…でも、そんなの持ってても面倒くさいだけだから、やっぱり早く下ろしたいかな。うんどうでもいいよね。

そんな道の途上。