寛容な社会でありたい(アニメ「日常」と漫画「究極超人あーる」におけるアンドロイドの描写について)

まぁなんというか、毎週日曜日にアニメ「日常」をニコニコチャンネルで見ているわけですが。


結構最初の頃から思っていて、今回第16話を見てそうだなぁと特に思ったのだけど、

日常 #16:日常の第十六話


なんというかこれ、「究極超人あーる」(ゆうきまさみ)にあったのと同じテーマを感じるのよね。



これはどっかで「あーる」作者のゆうきまさみさんが書いていたことだと思うんだけど、
「究極超人あーる」の特殊なところは、「アンドロイド」という存在に対して誰も疑問を持たず、
もの凄く普通に受け入れているところ。学校もそうだし、それを取り巻く社会もそうだし、
あーるを目の敵にしている刑事でさえ、彼がアンドロイドであることではなくて、
マッドサイエンティストの手によるモノだということを理由に監視しているわけで、
アンドロイドが存在すること自体には特に疑問を持ってない。
(たまになんでここにアンドロイドが、って言う「常識人」も出てはくるけどごく少数)

んで、アンドロイドだろうがなんだろうが人間と公平に扱い、
言動が人間の常識から外れていたときに限ってそれはあかんのちゃうかとツッコミが入る。
アンドロイドを受け入れるのと同時に、「アンドロイドだから解らなくても仕方ないよね」なんてのもない。
特別扱いは無くって、まぁ君は君だからという。



「あーる」の世界ではそう言う考え方、見方が一般的だけど、実際の社会はそうでもない。
言動より、属性や見た目を重視する人はたくさんいるし、何か価値観の相違が生じたときも、
「ああ、あいつはアレだから」といって諦めてしまう人も凄くたくさんいる。

アニメ「日常」の世界は「あーる」の世界よりももう少し現実に近くて、
誰でも偏見なく彼女(なの)を見るわけではないけれど、
でもなの自身が思っているほど特別視されているわけでもなく、基本的に社会は好意的に受け入れてる。
スーパーで買い物も出来るくらいだしさ。



あらかじめ持っている属性でより分けたくなる気持ちもわからなくはないのだけど…
そうやってとりあえず何でも寛容に受け入れていって、
言動に問題があったときだけ指摘するような、そんな社会になった方がいろいろとみんな楽だと思うんだけど、
なかなかそう一足飛びには行かないかな…

そういう「寛容な社会」でありたいと僕は思うのだけどな。