「宗教的な」について僕が考えていること

今朝同居人と、「酵素の経口摂取の効果」について喋っていて、
酵素栄養学は「要するに宗教だね」というようなことを発言したらえらい反感を招いた。
僕としては「宗教的だね」「宗教と同じだね」「構造が似てるね」程度の意味合いで発言したのだけど、
「宗教」=「概念的なもの」「精神的な充足を得るもの」という捉え方をされたらしい。えー

基本的に宗教が好きではないようなので、その辺で琴線に触れてしまったのかも。
そもそもただ体に良かったら良いなーと思ってるくらいで、
別に心酔してるわけでもないのにその言い方は酷い的な。確かに。
その点では凄く申し訳なかったけど、でも僕としてはそういう意味ではなかったのだよなー

というのを今さらくどくど説明しても仕方がない(僕だったら別に聞きたくない)ので、
ちょっと文章でまとめておこうと。



僕が考えていた「宗教的な」

どんな意図を持って「宗教的な」という表現を使ったかというと、
  • 何か「定義」が存在し
  • その「定義」に疑いを持たず信じることで
  • 何らかの成果を得ようとすること
という感じ。

例えばキリスト教信者にとって、神様の存在を信じるかどうか?という質問は意味をなしていなくて、
もし信じないのであればキリスト教自体が存在しない。神様を信じることから始まるわけだし。
(いや、色んな宗派があるのかも知れないけど通常の、という注釈付きで)

そういう「定義」に明確な根拠を求めない、盲目的な信仰を基礎とする構造を、
「宗教的な」と表現したいのです。



酵素栄養学は宗教的か

「酵素栄養学」というのは、「人間の酵素の生産には上限があり、また酵素の生産は体にとって負担なので、
体外から摂取することで体の負担を減らす」と言う考え方なのだけど、普通の人間が聞けば、
  • 人間の酵素の生産には上限があるのかどうか
  • 酵素の生産が体にとって負担になるのかどうか
  • 体外から酵素を摂取することができるのかどうか
  • 体外から酵素を摂取すると負担が減るのかどうか
と言った当たりに疑問を持つはず。
酵素はタンパク質だから胃酸で分解されるとか(だってそれが人間の「消化」機構なわけだし)、
消化酵素を除く酵素の殆どは体内で生産されているとか、
そもそも酵素って用途別に何千種類もあるのに食品の酵素くらいで何とかなるのとか。

でも、それに疑いを持っていたらそれ自体が存在し得ないんですよね。
だって活動の全てがその「定義」に沿って設計されてるんだから。
疑いを持たずにそれを信じる人間だけが成果を得られる。
「定義」が正しいかどうかなんて大したことじゃないんだよ。疑っちゃダメだ。まず信じてみよう。



似てませんかね。僕は似てると思うんだよね。



宗教に対する姿勢がきちんとしている人は「宗教的な」に当てはまらない

まぁ宗教が悪いとは僕はまったく思っていなくて、
用量を守れば生活の安定に寄与するとさえ考えているのだけど、
その辺の宗教への嫌悪感の差も、「宗教的」という概念が上手く伝わらなかった原因かもしれない。
いいんですよ別に。信じるというのはね。

何らかの宗教心を持ってお祭りに参加する、と言うのも僕は全然嫌いじゃないです。熱心に初詣に行くしね。
コストがない範囲においては、信じるだけで救われるならそんな便利なことはないですし。
(コスト … お金、エネルギー、時間など)

ただ基本的に…真面目に宗教に取り組んでいる人というのは、
その教義の是非について結構色々考えてるなぁという気もするのですよね。
それは様々な違いを持つ宗派が存在すると言うことによく表れていると思うのだけど、
信じると同時に自分が信じていることに対して常に検証を行うというのは、
信仰を守ってよりよい生活をするためには、大事なことではないのかなぁと思いますよ。




酵素栄養学について学ぶ

なにはともあれ読んでから批評しようじゃないか、というわけで、
さしあたり「新谷弘実 / 病気にならない生き方」あたりを読んでみます。
本当はエドワード・ハウエルの著作を読みたかったんだけどちょっと高い。
それに対して新谷本はAmazonでみたら中古が50円だったし(笑)

Wikipediaではボロカス書かれてますけど、一応は著作を読んでみないとね。

新谷弘実 – Wikipedia


あ、そうそう、この本的にはネタバレだけど、
この辺も目を通すと色々幸せになれるかも知れませんね。

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