言葉で表すことが必ず重要とは限らない


自分以外の人間は自分ではないのだから、きちんとコミュニケーションを取ろうとするのなら思っていることを言葉にして伝えなくてはいけない、せめて言葉にしようと努力することが相手と分かり合いたいと示すことになる ―― そんなことをここ何年か思って生きてきたのだけど、昨日先輩の結婚式二次会の幹事打ち上げでぐだぐだと喋られていることをずっと聞いていてそうでもないってことに気がついた。何かを思っているとき、それを言葉にしようとすると大事なことを取り落としてしまうこともある、、と。


例えば誰かと幸せに暮らしているとする。

その話を聞いたとき、それについてなぜ幸せなのかどんなときに幸せを感じているのかどんなときに相手の大事さがわかるか…そんなことを知りたいと思うことは単純な好奇心という意味でもあり得ることだろうなとは思う。でもそれを言葉で言い表そうとすることそれ自体には価値なんか全くない。それどころか、上手く言葉に表せないために前提であり確かな真実であったはずの「幸せを感じている」という事実をおろそかにしてしまうことがある。聞いている人間が、それってどうなの?みたいなツッコミを入れることで。たとえ上手く言葉に表せたとしてもその言葉は感じている「幸せ」の中の一部分を切り取って見せただけ、なのに、聞く人間はそれが「幸せ」を表す言葉なのだと感じるしその思いは話している人間にも伝わって言葉にしようのないズレ…というか違和感が残ることになる。

上手に言葉に出来るかどうかと幸せかどうかは本来全く関係のない話なのに、そこに「言葉」という物差しを導入した瞬間に何かがおかしくなってしまう。問題になっているのは「幸せである」という感覚を言葉で共有できるか/出来ないかであって、その感覚の正誤ではないはずなのに、言葉を重ねることでそれがいつの間にか感覚の正誤に言及している。こうして書いてみるとその時点で修正しろよと思うけれども、実際に話をしているとそれは普通に起こる。事実であったはずの「幸せである」という感覚を、余計な考え方で取り落としてしまうことになる。そういうことってのはある。



誰かを傷つけ、相手が悲しいと感じているときに、その相手にそれがなぜ悲しいのか理解できない、説明してくれと尋ねることには実際何の意味もない。確かに全てが綺麗に言葉で説明されてこういう行動のこの部分が私は悲しかったのだから次からこういう行動は取らないで欲しい、そんな風に伝わったとしたら次から同じような間違いは犯さないかもしれない。でも聞いている人間も含めてものごとはそんなに明確に割り切れないし、そう伝わることを期待して尋ねるという行為は、「伝わらなかったら悲しみを理解できなくて良い」という感覚に繋がりやすくなってしまう。決してそう意識しているわけではないのだけどでも実際にそういうことってのはある。それは本質的なことを見落としてしまっている。

理解できようとできまいと、傷ついて悲しんでいるという事実は動きようがなく、一番最初にすることは言葉でそれを理解しようとすることではなくてその事実を受け止めるということなんだろう。そして理解出来るかどうかと悲しいかどうかは根本的に何の関係もない。もし、理解できるかどうかを気に掛けることでその本質を損ねるようなことになってしまうのであれば、理解なんか出来なくて良い。大事なことはそんなことじゃない。



「感じていることや思っていることを言葉で相手に伝える」そのことが大事なことであるという思いは変わらない。変わらないけれども伝えられるかどうかは、「伝えられるかどうか」以上の意味は何も生み出さないし、「伝えられるかどうか」をキーにして感じていることや思っていることの価値を判断するのは、本質的でないだけでなく多くの場合においてその価値を見誤る。「verbalization first」で行けば全て納得しながら解決できると思うのは幻想だったと感じた。理想かもしれないがつかむためには失うものが多すぎる、そんな幻想。

そのとき他のメンバーが話していた内容は殆ど聞いておらず、30分くらいの間ビールを飲みながら1人で考え事をしていたのだけど、話していた内容を聞いていなかったのは考え事をしていたせいではなくて、延々と繰り返される質問が本質的な「幸せ」の色合いを奪っていっていると感じて気分が悪くなったからだ。言葉で上手く説明できないからってどうだっていうんだ。そんなことで彼の「幸せ」の色合いが希薄になったりしない。そしてその醜悪さが、そのまま自分自身に当てはまるなと感じたときに酷く馬鹿馬鹿しくなってしまっていろんなことを考えるのを止めた。そんなのわかんなくたっていいんだ、別に。それがなんなのかが見えてさえいれば。