なんだか酷いことになってる見たいですね。
参考エントリ:
アマ・ジャナ: 「ドラえもん」の呆れた制作裏事情(1)
アマ・ジャナ: 「ドラえもん」の呆れた制作裏事情(2)
アマ・ジャナ: 「ドラえもん」の呆れた制作裏事情(3)
アマ・ジャナ: 「ドラえもん」の呆れた制作裏事情(4)
安達元一 ブログまとめ – ごったニメーションblog – 楽天ブログ(Blog)
Yahoo!ブログ – 視聴率200%男!安達元一のテレビじゃ言えない!?
アマ・ジャナ: 「ドラえもん」の呆れた制作裏事情(2)
アマ・ジャナ: 「ドラえもん」の呆れた制作裏事情(3)
アマ・ジャナ: 「ドラえもん」の呆れた制作裏事情(4)
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Yahoo!ブログ – 視聴率200%男!安達元一のテレビじゃ言えない!?
放送作家が、視聴率を求められ、視聴率を求めるのは仕方がないと思う。
視聴率で放送局の広告料が決まり、
視聴率で放送局の収益が決まる関係上、
視聴率で自らの報酬が決まっても当然ですわな。
でもね、それって、そのー視聴者には関係ないわけですよ。
『最近のドラえもんが変わった』
『面白くない』
と批判されたときの言い訳が、
『そうは言っても視聴率が…』
では、はっきり言って、話が噛み合ってないわけで。
- 視聴率の論理
- (A)番組が面白い → 視聴率が上がる
- 放送作家(放送局)の論理
- (B)視聴率が高い → 収益が大きい
- 視聴者の論理
- (C)番組が面白い → 見る(≒視聴率が上がる)
- (D)番組が面白い → 喜ぶ
- 発展
- (A’)視聴率が高い → 番組が面白い(Aの逆)… 真とは限らない
- (D’)視聴率が高い → 視聴者喜ぶ(A’+D)…真とは限らない
視聴率は、放送作家にとっては大事なものなんだとは思うけど、
あくまで、放送作家の物差しであって、視聴者の物差しではないわけだ。
そんな言い訳されても、知ったこっちゃない。
放送作家の論理は、A?Dを基礎にした、
飛躍を交えた論理A’およびD’によって裏付けられているわけだが、
その飛躍の部分が納得できない人間には、通用しない論理なわけだ。
視聴者は、常に満足してテレビを見てるわけじゃないから。
不満だけどそれしかないから見てる人だっているだろうから。
つまり、視聴率は、『満足してみている人の割合』ではないので、
視聴率と、番組内容批判とは、共存しうる。
視聴者は、業界人じゃないので、視聴率の高さで黙ったりしない。
だから、少なくとも視聴者とコミュニケーションする中においては、
視聴率の話と、番組の内容の話とは、分けて考えるべきだ。
(D’)を真と仮定してする話には、やはり結局、違和感が残る。
というのは、
本当は、面白い(≒質が高い)番組を作ろうとしてるのだけど、
(D’)を見る限りでは、その要素に関しては、
視聴率を迂回することで、無視されているように見える。
(放送作家が本当はどうであったかはここでは問題ではない)
それはそのまま、作品そのものを見ていないという疑念に繋がり、
(実際には、そんなことはあり得ないと信じたいけど)
自分が何を作ってるか分からないから、
ああやってなんでもありの番組にしてしまうんだろう、という結論に至る。
本当はどう言うつもりかなんて、視聴者には分からんけれども、
少なくともあなたの言動はそう見えますよ、ってことだ。
自らに内在する矛盾に、全く気付いてなさそうだしね。
一方の口で、視聴率を取るのが仕事、みたいなことを言い、
もう一方で、番組の質を求めるのが大事、みたいなことを言い、
さらには、自分だって涙をのんで質を落としていると言い。
逃げ回る言動ってのは、
煽りまくる勘違いと同じように、
炎上を招くよな。
視聴者は、完璧、ドラえもんが好きな人達で、
対象は凄く絞れるわけだから、
もう少し建設的なコミュニケーションを築けた気がするんだけどなぁ…
人気投票で過去の作品を放送するとか、
是非を投票に掛けてみるとか、
何とでもやりようがあると思うのに。
(投票するだけで実際に動かなくても意味はある)
最高のコンテンツを、全く生かし切れずに、
足の早い時事ネタだけで、浪費してるだけな気がする。
もったいねー。
むしろ新作を作らずに、
昔の放送をローテーションするだけで数字取れると思うよ。
コスト考えたら利益率はよっぽど高いし。
色々変えてみるなんてのは、案外、
作り手の自己満足なだけなんじゃないの?
リアル『くうきほう』はグッと来たんだけどなぁ…