『あのー…すみません』
仕事が終わって、あーやれやれさて帰るか、と思いながら、
河原町二条を西へ折れたとき、誰かに後ろから呼びかけられた。
あの辺りは、クラブが再開したことから若者も多く、
何かイベントか、はたまた道を聞かれるのか、
と思いながら振り返ると、そこには、
薄汚れたジャケットに、大きめのバッグ、よれたスラックスの
おっちゃんが立っていた。
『あのー…すみません、私今から、バスに乗って京都駅に行って、
そこからJRで尼崎まで帰るんですけれどもね…』
おっちゃんは、不安な顔をして、
言いよどみながら話しかけてきた。
やっぱり道を聞かれるのだ、僕はそう思い、
さて、京都駅へ向かうバスはどのバス停から出ているんだろう、
と思いを巡らせた。
だが、おっちゃんは、同じことを頭からもう一度言う。
『あのーすみません、バスに乗って京都駅に行って、JRで
尼崎まで帰るんですが…』
『ああ、バス停ですか?えーと京都駅にはどこから乗るんだったかな…』
『いえ、場所はわかってるんです。わかってるんですけど…』
言いよどみ、しばらく沈黙したあと、こう続けた。
『800円足りませんねん…』
一瞬、え?と思ったが、
僕の顔にうつった不審な表情に気づいたのだろう、
おっちゃんは、慌てて、しゃべり始めた。
『私、土方やってるんですけどもね、仕事が無くなってしまいまして、
北白川の方とか、いろいろ行ってみましたんですけれども、
仕事が無くて、それで、尼崎にかえらなあかんのですけども、
お金が無くなってしまいまして、ご住所教えていただいたら
お返ししますから、あの…』
バッグから運転免許証を取り出して見せながら続ける。
『これも、残りが50円しか無くて、800円足りなくて…』
もちろん、僕が裕福なわけではない。
たまたま、食うに困らない生活をしているけど、
見知らぬ人に二つ返事でお金を貸せる余裕はない。
でも、僕はそんなおっちゃんを見ながら、
ジーンズのポケットから、財布を出していた。
『え…あ…、ありがとうございます…』
『あ、あの、ご住所は…この近くにお住まいですか?』
京都の住所を教えるのは少々手間だ。
自分でも正確には覚えられないし、多分相手もわからないだろう。
それに、家まで返しに来られるのも少し不安ではある。
運転免許証と、残り50円しかないプリペイドカードを持って
僕を見つめているおっちゃんに、
僕は真ん中で折った千円札を差し出して、声を掛けた。
『いや、いいっすわ。きぃつけて。』
おっちゃんは、戸惑った顔をしながら、
一方で安堵の表情を見せ、何度もお礼をしながら、
河原町の方へ歩いていった。
* * *
僕は、騙されたのかもしれない。
そのおっちゃんは、橋の下に住んでいる人たちの一人で、
僕が上げた千円は、その日の晩酌に使われているのかもしれない。
『でも、まぁ…』
そんなことはどうでもいい、と、思った。
例えそうだとしても、明らかに自分より若い見知らぬ男に、
金を貸して欲しい、などと、言えるものではない。
帰る予定があるんなら、帰りの交通費くらい残しておけよ、
そう思うけど、彼には彼の事情があったんだろう。
例え騙されたんだとしても、
そのお金で彼が少なくとも今日、生きることができるなら、
それで良いじゃないか、と。
そんな安易なことをしたら、
癖になっておっちゃんのためにならない、
そういう意見もあるかもしれない。
でも、僕には、彼を説教する権利はないし、
いつ、僕が同じように困らないとも限らない。
そのとき、僕が必死で声を掛けた人は、
僕にお金を貸してくれるだろうか?
きっと、冷たくあしらわれるに違いない。
ここにこうして書いてる時点で、
『僕は良いことをしたのだ』
そういう思いがあることは間違いないけれど、
そうした全てを含めて、僕は彼にお金を渡したのだ。
お人好しすぎるけれど、
僕はきっと、間違っていない。
彼ともう一度会うことがあるとは思えないが、
少なくとも今夜は、家に帰り、生き延びられるだろう。
それだけで、十分だ。