疑う訳じゃない、感じる前に感じろってことだ

以前、BOT調査の中で取り上げたバカヤマの方からコメントを頂いたので、
お邪魔してみました。
その時プロフィール用エントリの一つにあった言葉が、
どうも僕も思っていたことを簡潔に表していたので、うーむ。と考える。

“他人と違う行動をすることから快楽を得るような生き方にシフト”することを薦めておられるみたい。(中略)ほとんどの人は『皆がそうしている』から『とにかく差をつけ』てみようと行動するだろうしさ、(中略)そうなると今度は“自分は平凡な人じゃないと思いこんでいる平凡な人”が大量発生してますます世間が狭く息苦しくなるでしょう、きっと (怖っ
結局大切なのは『自分に一体なにが必要なのか』を一人ひとりが精確に理解することなのかも

僕は、これは本当に大事だと思うのですよ。


僕が自分も含めたいろんな人のことを見ていて思うのは、
何かをしたい動機が、そういう例があるから、ということが異常に多いと思うのです。
このあたり、小寺氏のコラム(@ITmedia)とかぶるけど、
他人と違う行動が、何かを選択することから成り立っているわけですよ。
『着せ替えケータイ』なんてその最たるモノだと思うのだけど、
20種類から1つを選ぶなんて、個性でもなんでもない。
それなら、まだ、プリクラを貼りまくる女の子の方が個性がある。
でもじつはそれにしても、『プリクラを貼る』という行為自体が、
パッケージとして、携帯に付随して『提供』されていると考えることも出来る、
単に、そういう成功例があるから選択したと言うだけのことだ。

平凡じゃないことを求めて、さまよい続ける迷路、
それは実は個性の探究ではなくて、あくまで選択肢を選択し続けることだ。
僕は昔から、『今年の流行色』なんてのが疑問だったんだが、
はっきりいえば、そう言う選択指針を示してもらった上で、
あがき続けるのが、現代の個性ってことだ。


そう言う視点で言えば、先にピックアップしたエントリの部分、
何が違和感があるかというと、
最初の、
『他人と違う行動をすることから快楽を得るような生き方』
という一連の言葉には矛盾があるからだ。

これは1つの生き方モデルでしかない。
他人と違うように生きようとする、生き方モデルだ。
言ってみれば、外見が違うだけで、中身は変わらない。
他人と違う行動をするために、他人と同じ行動様式を取る、

結局、横並び、みんなと同じ、そういう思考回路からは抜け出せない。
全てが、『モデル思考』なのだ。



周りに、アドバイスや、占いや、セミナーに弱い友人がいるだろう。

僕にもそんな友人がいるが、
結局、自分の中に自分を見つけられていないから、
次々に新しいモデルを導入しようとするのだろうと思う。
そうする自分が自分だ、という逆説的な言い方も出来るが、
価値観というものは、例え切り貼りでも、そこに思考がある限り、
導入とは大きく違うと言うことだ。

そうした人たちは、思考モデルに依存して生きているから、
そのモデルが否定されたり、モデルを見失ったりすると、ひどく不安になる。
恐らく、その不安を、他の不安や悲しみと区別も出来ないと思う。
結果として、また新たなモデルを求め、
それによって安定することを、心から望む。


モデルを追うことが悪い訳じゃない。
自分の脳だけでは、思考も、発想も、限界がある。
そうではなくて、それを得るときに、それをどう扱うか、が重要なのだ。

これって素晴らしい!と思って陶酔する…
まぁ、そういうこともたまにはあるけれども、
基本的には、自分の内部の思考回路と、対決させるはずだ。
選択ではなくて…思考モデル完結ではなく、
このモデルのここは良くてここは悪い、そんなことを感じられるかだ。

『良いと感じた』と発言するのは、大概、インストールしてしまった後だ。
そうではなく、良いと感じる前に、どうなのかを感じなくてはならない。
疑う必要はないが、
それを見る必要はある。
見てもわからないなら、それが分かるように、多くの知識を持つべきだ。
知識は使い捨てにするのではなく、蓄積されなければならない。


* * *


まぁ…はっきり言って、人がどうだってかまわんのだけど、

違うことを追い求めることと、同化を求めることは、同じだってことだ。
結局、指摘の通り、ぐるぐると回り続ける輪の中にいるだけだ。


日本人が、そうした輪から解放されて、
もっと自由気ままに考え、行動し始めたら、
この国はもっとエキサイティングな国になると思うのだが。
(治安や政情とか悪化しそうではあるけども)

なんとも、惜しい。