有名ブロガー松永氏の過去について、
とあるジャーナリストが言及したことによって、
ネット上で話題になってます。
それについて、松永氏もある程度の表明を行っています。
備忘録ことのはインフォーマル – 一連の疑惑について
先日、差別に関する言及(というほどではないか、漠然とした感想、という程度)をしたのだけど、
まぁ…それと通じるものがあるなぁ。
正直に告白すれば、過去一度でも密接に関わりがあったという点で、
多少なりとも不気味さは感じるけれども、
本人が否定しているんなら、そうなんじゃない?という感じ。
取り立てて、批難する必要性は感じないなぁ…
目くじら立ててる人は何なんだろう、という気もしないでもない。
なにがしかの言及をされたことがあって、
それを元にした個人的感情による批判が多いのかなぁとも。
意味ねぇなぁ。
まぁ、僕はあんまり興味がない、ってことなんでしょうね。
同じ理由で、松永氏を(間接的に)追求した野田氏に関しても、
取り立てて思うことはなく。
胡散臭いなぁ、とは思うけど、別に野田氏個人がどうかってのは、僕には関係ないから。
出てくることだけ、判断すれば良いんでね。
これが恋人とか、友人とか、仕事関係とかだったら、
なかなかそうはいかないけど。
(発言を追うだけでは距離が開きすぎることがある)
* *
で、それはいいんですけど、
(良くなくたって俺には関係ないし)
その表明をされる前に、言及と認識に関して書かれていて、
まぁ、そうだよね、と思ったので、抜粋させていただく。
俺が書いたことを鵜呑みにする人は、俺と認識を共有するがゆえに、俺が間違っていたら共倒れするだろう。だから「信者」はいらない。
俺が書いたことを俺が書いたが故に怪しむ人は、俺が正しいことを書き続ければ書き続けるほど、事実から遠ざかっていく。「アンチ」は自滅する。
俺が書いたことを簡単にでもいいから自分で考えてから納得したり否定したりする人は、健全。
俺が書いていないことを書いているかのように言う人は論外(笑)
俺が書いていないことは、単に書く気がないこと。それを「認めた」「認めない」と結びつける奴は単なるバカ。
『俺』が正しいかどうかはわかんないんだよね。早い話。
僕の場合、自分でもよく分からん。後で変わることもあるし。
だから例えば、判断基準としての、『俺が書いたが故』というところが重要、
『鵜呑み』も、『俺が書いたが故』の意を含むと考えて良いだろう、
要するに、判断のないヤツとは話をする気にはなれん、ということでもある。
頭ごなしに否定、はそりゃもちろんむかつくけれども、
手放しで賞賛、ってのも同じくらい信用できんのよね。
まぁ、いろんなことやってれば、そういうことを言ってくれる人もたくさんいるけどさ、
それはネガティブ、自分に自信がないとかそういうことはなくてさ、
『手放しの賞賛』の中には僕へのフィードバックは気持ちしかないんで、
僕も気持ちだけ受け取る、まぁ要はそういうことだね。
サイトを運営してるとさ…サイト=人格と考える人が多くて、
ああ、悪意だけじゃなくてごく自然に、と言う意味だけど、
サイトに書いてあることが、過不足無く僕の思考だと思われがち。
それが、抜粋の最後の文を読んで僕が感じたことだけど、
結局、読者は文章と会話してるんだろうなぁ、と思う。
(バカかどうかは知らんけど)
結局は、コミュニケーションじゃないのかもしれんな。
自分へのフィードバックしかないから。
イメージの違い。(左:筆者/右:読者)
* *
まぁそんなことを思いつつ、冒頭の疑惑のエントリを読むと、
コメント欄が、批判するヒトと擁護する人に分かれてて、両方気持ち悪い。
多分、大多数の人は様子を見てるんだろうなぁ。
書かない=いないという文化のネット上では把握しにくい空気だけどね。
差別する気はないけど、過去は過去ってこった。
それもまた、しょうがないことだな。