否、
比喩としての表現であるならば、時間は全てを解決する。
たとえ、どんなにこじれた問題であっても、
長い時間が経ち、当事者が全て死亡したり、
状況そのものが変わったりすれば、問題そのものが無くなってしまう。
でも、実際に使われるときに、
この表現が完全に比喩であると意識することは、ほぼ無い。
比喩ではなく実質的な解決を望むような場合にも、
この表現は使用される。
極めて、分析的に見てみると、『時間』が何かを解決しているわけではない。
例えば生ゴミを庭に埋め、分解されるのを待つとしても、
解決しているのは時間ではなくて、
微生物である。
人間関係、例えば、恋愛など、
どんなに考えても答えが出ない、時間に解決を任せるしかない、
そんなときであっても、本当のところは、
気持ちが薄れたり、誰か他に気になる人が出来たり、
相手に新しい恋人が出来て悩むことを許されなくなったりして、
解決せざるを得ない状況になるから、解決する。
いや、問題が無くなる。
そこで、時間がしていることは、これと言ってない。
時間は、万能な神と同列に並べられるようなものではなく、
ただそこに存在しているものだ。
いわば、ひとつの目盛りにしか過ぎないし、
『解決を時間に任せよう』という言葉はすなわち、
自分以外の他のモノが変えて(変わって)くれるのを待とう、と言う意味だ。
そこには、自己解決という側面はない。
時には、単純に、責任転嫁という結果にしかならないこともある。
寝かせた企画は、環境が変わって動きやすくなることはあるにせよ、
誰かが手を付けない限り、企画自体は進まない。
時間は、何もしてくれない。
だから、時間に任せたいときには、
それに対して自分は関与しない、ただ待つだけだ、と言う意味を自覚することが必要だ。
私は、他人を頼ります、
私にはどうすることも出来ないのです、
そう言う意味だからだ。
そして、
ひょっとすると、逆説的に感じられるかもしれないけれども、
生きていく上で、そうした考え方が重要になることもあるということだ。
ある問題で、どうしても自分以外の要素がネックになって、
解決が進まない、
そんなときに、誰かが変えてくれることを期待し、
自分としては一時的に放棄する。
それが、自分自身の問題であっても、ネックになっている部分が自分以外であれば、
それは厳密には自分だけで解決することは出来ない。
寝てる間に小人が出てくれると、もう少しことは楽に進むのだが(苦笑)
なかなかそんなことはないわけだし、
盲目的に時間に任せるのではなく、
一方で、盲目的に抱え込むのではなく、
問題を見て、それを分析し、
自分と、問題とで折り合いを付けていくことが重要だと思うのだ。
時間は、何も、解決しない。