孤独という環境。

僕は、比較的孤独に強い人間である。


これは、さっき、真っ暗な京都御苑の中をジョギングしながら思っていたことなのだけど。
完全な、孤独、ってヤツは、
日常生きていると、意外とない。
一般的に孤独って言われるようなこと、
例えば、部屋に一日中引き籠もっているとしても…
それはあくまで、部屋の外との関係性の上に成り立っているんであって、
全く、完全に、自分だけ、という状況じゃない。
見た目、自分ひとりだけなんであって、孤独なんかじゃない。


昔、よく自転車で旅行をしていた頃(今でもしたいという気持ちはあるけれど)、
全くの孤独、という環境に自分の身を置くことが幾度かあった。

一般人は滅多に足を踏み入れないような山の中、
踏み外すと海へ真っ逆様な断崖絶壁(一応、自転車道ということになってはいた)、
行くも戻るも、大雨の雨粒の中、今日寝る場所も見つけられないような日、
まだ日も昇りきらない、湖畔の遊歩道、

何をどう考えても、半径何キロか以内には僕しかいない。


そういうときに感じる、孤独、という感情は、意外なことに、全く不安や恐怖には結びつかない。
もしかすると、僕自身が特殊なのかもしれないけれど、
誰もいない、およそ人類と呼ばれる生物とは、何の関係性もない、
そんな状況で、自分と『ふたりだけ』の状況というのは、
少なくとも、僕にとっては、この上なく心地良い。

もちろん、そんなときにトラブルが起きることもある。
パンクした自転車を引きずって、重量を減らす為に空気入れを積まなかった自分を恨みながら、
10キロ以上自転車を押して市街地を目指したこともある、
雨合羽が、ただの気休めにしかならなくて、
自分の体より荷物を優先して使ったことも、

そんなときには、誰かが助けてくれれば楽なのに、とも思う、
でも、誰もいなくても、自分はいるじゃないか。
そこで自分が諦めてしまったら、何も動かないし、
切り立った崖の迫るこの奥深い山を脱出するには自分で何とかしなくちゃならない、
それも、自分は心地良い。

完全に、全ては、自分次第なのだから。
僕は、そういう孤独が好きだ。


日常感じる孤独感というのは、決して、個人の孤独には根付いていない。
むしろ、孤独ではない、という関係性の上に成り立っている、
例えば、異国で言葉が上手く喋れないとか、
知らない街で誰も知人がいなくて、しゃべり掛ける言葉がないとか、
イベントで手持ちぶさたになって、音楽もさして面白くないとか、

本来あるべき、または希望する関係性が上手く成り立たないときに感じる孤独、
それは正確に言えば、孤独みたいなもの、孤独感であって、
孤独そのものじゃない。
自分だけしかいない状況ってのは、そんなに窮屈なものではないと思う。


きっと、世の中には、僕よりもっとずっと重い心を抱え、
ずっと深刻な孤独感に苛まれる人や、
本当に孤独である人も多くいると思う。

でも、それは、孤独であることが悪いんじゃない、孤独は悪さをしない、
重い心の内容や、悩みのせいに違いない。


あまり、孤独を責めないでやってほしい。

自分のことを、見てやれる瞬間なんて、実際問題、そうはない。