昔より、過去の文章を読むのが容易になった。
だからたまに振り返る。
1年前の今日は、僕は何を言っていたんだろう…
2年前は?3年前は?
1年前は、失恋の痛みを必死で振り払おうとしていた。
と、同時に、
自分の周りにあるモノを現実的に見つめ始めていた。
2年前は、ひたすらに自分の内的分析と外的関係(コミュニケーション)について考えていた。
3年前は、デザインにはまってましたね。
僕にとってこのサイトはいつでも大きな存在で。
『近況でもお知らせしますよ』なんていう程度のモノでは決してないし、
あらゆること、人間的なことや、自分の技術的なことや、感性的な部分や、
そうした全ての面で僕自身をアピールする、履歴のようなもの。
僕は決してそう望んでいるわけではないのだけど、
僕がその時感じることを、素直に書き記してきたらこうなっていた、
ただそれだけのことだ。
それ以上ではないし、それ以下でもない。
後は、読む人間が決めることだ。
僕にとって、NOBODY:PLACE、そしてMUTTERの本来の姿とは何なのだろう?
blogという形態をとることによって生じたもう一つの影響は、
どうでもいいようなことで、サイトを埋めるようになったことだ。
時事問題然り。新製品然り。
もちろん、それ自体に対する言葉は、確かに僕自身が感じたことで、
確かに僕の一部ではある、
でも、その多くは使い捨て、なのだ。
僕自身はそれを読み、そこに息づく自分の感性を感じることが出来るけれど、
これを読む友人達は、どうなのか。
僕は別にニュースサイトなんか運営したくはないわけだし。
僕はこれを読む、『あなた』に対して、
今、ぴったりの言葉を届けたい。
そして、その『あなた』というのは、多くの場合、僕自身のことだ。
このサイトにとって…
本来、読者というのはいないものなのだ。
それは決して、自慰的な、自分をさらすような、メモのような、そういうサイトと言うことではなくて、
見られていることを知っていながら、無視し続ける。
それはある意味で僕の生き方の一つでもあるし、
人との付き合い方でもある。
そして、逆説的になるけれど、
非常に大事なモノは、絶対に無視しない。
MUTTERはそういう考え方、そのものだ。
振り返って読み返すとき、
そうした想いが、今、希薄になってきているような気がした。
全ての人たちに、公平に、愛想良く、明るく、接することが出来る自分がいる。
僕は、そういう自分が、好きだ。
でも、公平というのは、全て同じということだ。
僕は、特別なものを、本当に大事にしているだろうか。
それを感じられない、気がする。
…そうか。
ここまで書いて、少し自分で自分に騙されていたことに気付いた。
僕は、数多くの文章を公開することで、
自分の想いを、隠していたんだな。
そんなことを暴露して良いのかどうか、よく分からないけど、
木を隠すなら森に。
最近の様々な読者の感想を、直接・間接的にいただいて、
果たして自分の伝えたいことが伝わっているんだろうか?と疑問に感じていた、
『is-You』から都合7年ほど続けてきたこのサイトの意味を失っているんじゃないかと、
少し不安になってきていた。
でも考えてみれば、
別に、伝わらない人には伝わらなくって良いんである。
こんな事書いたらまたブーイングだけど、
時事問題や、新製品のニュースを見て楽しんでくれる人もいて良いし、
僕の、本当にコアな、想いに対して、
真摯に反応してくれる人がいても良いわけだ。
ここを見る人が、過去ログをすべて読むような暇人なわけでもないわけだし。
(DIARYと合わせて3,200件を突破した)
楽しんでくれる人には、Helloを。
真摯にとらえてくれる人には、ThankYouを。
ここは、NOBODY:PLACE。
誰のものでもない場所。
見る人によって、見える景色はきっと違う、
見えているものは、その場所ではなく、
あなた自身の、心の風景なのだ。
追記: why is your name “Nobody”?
Nobodyとは、すなわち、誰でもない、ということ。
英語圏ではよく見かける表現だけれど、
日本語には、『Nobody』と相対する単語はない。
僕は、誰でもいたくなかった。
何か、名前の付いた何かになるくらいならば、
誰もが知っているけれども、誰も知らない、
そんなものになりたかった。
あなたの見る僕はどんな人間ですか?
その回答は、あくまであなたの見る僕でしかないし、
あなたの友人が見る僕はまたそれと違う、
そのまた友人も同じように。
結局、僕というきっちりした存在は、この世には存在していない。
僕は、Nobody以上の何者でもないし、
本当のことを言えば、僕が見ているあらゆるモノは、Nobody/Nothingだ。
ただ、僕の友人はいつでも僕の前では、なにがしかの名前の付いたものだし、
同様に、僕自身も、あなたの前では、いつも、なにがしかの名前の付いたものだ。
だから、日常生活には支障はない。
でも、もし、それが間違いだったら?
だから、いつでも、あなたには初めて出会わなくてはいけない。
あなたもまた、Nobody以上の存在ではないから。
僕にとっては。
英語圏ではよく見かける表現だけれど、
日本語には、『Nobody』と相対する単語はない。
僕は、誰でもいたくなかった。
何か、名前の付いた何かになるくらいならば、
誰もが知っているけれども、誰も知らない、
そんなものになりたかった。
あなたの見る僕はどんな人間ですか?
その回答は、あくまであなたの見る僕でしかないし、
あなたの友人が見る僕はまたそれと違う、
そのまた友人も同じように。
結局、僕というきっちりした存在は、この世には存在していない。
僕は、Nobody以上の何者でもないし、
本当のことを言えば、僕が見ているあらゆるモノは、Nobody/Nothingだ。
ただ、僕の友人はいつでも僕の前では、なにがしかの名前の付いたものだし、
同様に、僕自身も、あなたの前では、いつも、なにがしかの名前の付いたものだ。
だから、日常生活には支障はない。
でも、もし、それが間違いだったら?
だから、いつでも、あなたには初めて出会わなくてはいけない。
あなたもまた、Nobody以上の存在ではないから。
僕にとっては。