仮に、
時系列的な在る一点に比べて、現在の僕が精神的に年を取ったとして、
具体的にどう変わったのだろう?と考える。
僕がいつ年を取ったのか?ということを考えるとすると、
それはまず間違いなく、2004年の春から夏にかけて、ということになると思う。
身や心に起こった様々な出来事を、具体的に書くことはちょっと出来ないが、
僕は、その時々に、何かを、諦めた。
年を取って成長した、とか、
成長した結果新しい特性を得た、とか、そういう類のことではなくて、
僕は、望むことや拘ること、執着心や、自尊心、そうしたことの一部を、
綺麗さっぱり、諦めた。
なにか、問題が起きたとき。
もっと、ああしていれば良かった、こうなるはずだったのに、と、後悔する。
こうしてしまったことをフォローするために、次はこうしなくちゃならない、と、思い悩む。
それが、今までの自分だったはずだ。
でも、現在の僕は、必ずしもそうではない、
出来なかったことは仕方がない、やってしまったことは仕方がない、
そう、問題を単純化できる。
もちろん、良いことばかりではなく、
嫌いなんだから仕方がない、これを口にして嫌われることになっても仕方がない、
このまま行って誠実さを欠くことになっても仕方がない、
エクスキューズをしない、ということはそのままで、
且つ、フォローも考えなくなっていると思う。
このことは、日々生きていく上では、非常に大事なことで、生きるということを楽にしてくれる。
人生、悩んでも、悩まなくても、しなくてはいけないことは同じなのだ、
悩んで得ることがあることを僕は知っているけれど、
それを得なくてもやるべき事は同じである、ということも知っている。
一方で、自分自身が、単純化【simplify】されるばかりか、というとそうでもない。
常に、それでいいのか?という思いもある。
表面的に振る舞う範囲が、一部の外的関係に限られていたこれまでに比べて、
より拡大し、自分に近い外的関係や、自分自身の一部にまで及んでいるのかもしれない。
つまり、問題に対する対処の仕方を単純化【simplify】したはずなのに、
自分自身への接し方は、より複雑化【complexify】させてしまった。
諦める、と前述したけれど、それは決して消えて無くなるわけじゃない。
何らかの悩みに対して、『今は』と、見てみない振りをするだけのことだ。
見ないで、考えないようにしていれば、多分そのうち忘れてしまうだろう、
そんな安易な考え方でしかない。
もちろん…こうして厳密に指摘するから重大に聞こえるだけで、実はみんながやっていることだ。
毎日のちょっとした過ちや、人生のちょっとしないミスのことを、
四六時中思い悩んでいたら社会は動いていかないのだから。
僕自身は、この単純化【simplify】の傾向を、決して良いとは思っていない。
確かに、単純化【simplify】は、ブルーになって落ち込む、そんな状況を軽減してくれていると思う。
複雑化【complexify】させても、悪化させているばかりではなく、
寝かせておく内にいつの間にか、解決してしまうことだってある。
でも、自分の中で、『誠実さを欠いている』と思う場面が増えるのも事実だ。
裏表を使い分けて、愛想良く切り抜けたところで…
僕自身は微塵も満足できない。
そういうことは、そういうことが仕事の、他の人に任せておけばいいのであって、
わざわざ好きこのんで、頑張る必要なんて無いハズなんだ。
それより何より…
悩まない、ということは、こんなにも退屈なことだったのだろうか?と、思い始めている。
恋人の一挙手一投足に、一喜一憂したり、
自分の言動を酷く後悔したり、他人の言動に深く感謝したり、
そうした、人生の『溝』までも、単純化【simplify】してしまっているような気がする。
悩み始めてしまったら、キリがない。
縺れに縺れた糸をほぐすために、そのことだけにかかりっきりになるか、
もしくは、断ち切ってゴミ箱に捨ててしまうか、だ。
前者は難しく、後者は辛いだろう。
『正直、なんだっていいんだ』
そんなことを思いながら、生きていたくはない。
年を取るってのは、こういうことだったっけ?
難しかろうが、辛かろうが、
再び何かを悩むことが、何かを取り戻すきっかけになるような気がしてならない。