最近はあんまり、動揺しないな。
望むと望まざるとに関わらず、多くの人の作り出す
『風の流れ』に巻き込まれて影響を受けるけど
決して無視するのではなく(無視は受容にはならない)
受け入れた上で、それぞれの引き出しにしまう。
暇なときに引き出しを開けて眺める。
名前のまだ付いていない感情が、
皮膚から溢れるときに初めて名前を付けられる。
僕の中に溜まっているモノはそんなもののはずだ。
外から見て区別できるほど、僕らは単純ではないし
感じてわからないほどには複雑でもない。
僕は感情を排泄する必要もないし、
受け入れたつもりになる必要もない。
幸せの虚像を作り、それに向かって邁進する必要もない。
感傷的にはなるけど深いところでは
現状にも、満足できる点が多くあることを知ってる。
恋愛に満足できなくても他で補えることを知ってるし
写真撮影の仕事でフロアをきょろきょろして友達に誤解されたみたいだが、
躍起になって『その晩の女』を探す必要もない。
僕は、見苦しくったってなんだっていい、ただ、
不自然でいたくない。
それが分からないような盲目的な人間にもなりたくない。
一部の人間は、時が経つに連れ、おかしくなっていくようだ。
相手がいかに『私はおかしい』と主張しようとも
僕の中で像を結べばそれは全く不自然ではない。
口の中がざらつくような違和感を感じれば、
自身がどんなに正当性を主張してもそれは不自然だ。
判断の出来ない人間だけが流れていく。
プログラムを相手に生活しているとより一層強く思う、
僕は主体を持ち、1人の人間としてありたい。
悩むことこそが、人間の本質だ。
その意志と感性を持たぬ人間にはなりたくない。
不自然さ。
わからないか?