いろんな人やいろんなものを見るのは
最終的には自分を見つめるためだ、といって過言ではないのだけど
自分のことを考えると、つくづく、不思議なヤツだな、と思う。
(特別だ、と言っているわけではないのだけど)
自分に自信がなくても、何かに頼り切るということが少ない。
もちろん、メトロとか、酒とか、WEBとか、
『好み』を含めればそういう傾向もないことはないのだけど
目に見える形で何かに寄りかかる、ということをあまりしない。
何かにきちんと定義されることを避け、
それがたとえ自分自身による分析であっても、
常に定義を更新して、定義し続けることに喜びを見いだすようだ。
拠り所の最たるものといえば宗教であり、
ほぼ無宗教な日本人からすれば奇異に見えたとしても、
人類の95%は何らかの宗教に帰依していると言っていいだろう。
自分以外の何かが指し示す道を、受け入れて安心できるような
そういう精神性が僕にも備わっていれば、
もっとずっと楽だろうに、と思う。
きっと僕にも、日本人独自の、
そうした精神性は備わっているとは思うけれど、
ニュースでよく目にするような、
キリスト教徒やイスラム教徒のような、
明確な指針が、少なくとも僕にはない。
そしてそれで平気なのだ。
(そう欲するような危機が身近にないからかもしれない)
『信じれば救われる』という言葉はあながち嘘でもない、
人間の不安を取り除くことが宗教の大前提であるのだから、
信心を持つことによってそれは達成されている。
僕自身、そういうものに疑いの目を向けているわけではないのだけど
正直言ってしまえば、好きでも嫌いでもなく、あまり興味がない。
かと言って、よく言われるような、金や地位や性に走ることもないし、
人より先んじようとすることも特にない。
いまいち、何を、自分の指針として生きているのか、不明瞭なのだ。
が、それでいて特に不安定でもない。
寂しいということもない。
むしろ、そう言う『渦』に与すのがあまり得意ではない。
もちろん、人が喜ぶ顔を見るのは好きだけど…
だからといって、『教祖のように祭り上げられる』
盲目的に肯定されたり、または否定されたり、
という接し方は僕には出来ない。逆もまた然り。
冷静に考えてみれば、短所も長所もあってしかるべしなのだから。
よく言われるような、『醒めている』感情とはまた少し違う。
あれは…簡単に言ってしまえば、無視、だ。
よほどの嫌悪感を感じない限り、または、猶予を欲しない限り、
そういう言葉は出ては来ない。
尊敬し、尊重することというのは、そんなに単純じゃないはずだ。
悩むことは苦しい、不安は嫌だ、しかし、
生きている以上、それこそが、
人間として、ごく自然なことなんじゃないのか。
自分が何のために生きているのか、時々分からなくなる。
でも、そのままそれだけで混乱していた時期は過ぎた。
長かった、人生の大半は費やしたような気がする、
でも、今は、それでも、僕を必要としてくれる人がいるのだ、と思える。
僕が今ここにいる理由。
今、生きているから、それで良いじゃないか。