そこにあるもの

夢や憧れ、希望や望み…
たとえささやかであっても、誰もが持っている。
でも、夢や憧れを真剣に語る場面はそう多くはないし
それが自分の今の延長線上に、
明らかにないときには、特にそうだ。
夢を語っているつもりでも、知らず知らずのうちに
希望や、望み、で、終わってしまう。

僕にも、憧れはある。
でもそれはここに書くことではないし、書きたいとも思わない。
僕がそれに向かって踏み出そうとしたときに
影響を与えてしまう、人にだけ、話せばいい。
『周りの人間』には、唐突であったとしても
自分の中で、ごく自然、であれば、それでいい。

大事なことは、それを口にする、機会と場所を見誤らないことだ。
必死に、『望み』を語ってしまった後では、
『憧れ』がどんな位置にあるのか、伝わらないだろうし
相手に伝わらない、ということは、自分にも伝染してしまう。
相手がわからないことなど、大したことではないけど
自分に伝染することだけは避けたい
大事なことであればあるほど、あしらわれたくない。

時々、考えることがある。
僕は相談を受けることが、多くある、
相手が誰であっても、相談されれば忌憚なく意見を述べる
それは僕の信条だし、相手への精一杯の誠実さでもある、
でも、僕のそれは、僕が思うよりも、
上滑りな意見になっているんじゃないか?
ものを言う姿勢や考え方だけではなく…
大事なことを口にすることを
躊躇わせるような人間、なのではないか、と。

相手が僕と同じような人間であれば、
お互いが、もっと大事なことについて話が出来るかもしれない。
でも世の中はそう同じ人間ばかりではないし、
だとするなら僕には、
誠実さと、真剣味が足りないんじゃないか?と。

望みや希望は、数多く聞いてきた。
自分のいる道の先のことについてだ、
それがどこまで大事かは僕が決めることではないし、
僕は、僕なりに真剣に考え、聞くだけだ。
ただ改めて考えれば、僕が大げさに考えすぎていたことが
多くあったんじゃないか?
そんな話の後に、夢や憧れを語るのは…心苦しい。

そんなことが、今までに幾度かあった。
希望や望みについて、真剣に意見を述べた後で、
人づてに、夢や憧れを聞く。
どうしようもない、気分になる。
笑って話せるならまだいい、励ましたり、詳しく聞いたり、
だが、気づいたら会えなくなっていたり、
連絡が取れなくなっていたり、外国に旅立っていたりする。
ならば、僕のあの時間は、何だったんだ?

大事なことを話すかどうかは、話す人間が決めることだ。
僕だって、請われたって、話せないときには話せない。
きっと、僕とのコミュニケーションには、話すタイミングがない。
ならば、そこにあるものは、何なんだ?

悩みも、苦しみもしないが、
紫煙の陰で、時々、考える。