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少し重い戸を押して、バーに入る。 戸は、外の喧噪を、外の空間に完全に閉じこめていて、そこに独特の澱んだ、しかし透明な空気を作る。 その空気を感じることが、その場所への入店許可の代わりでもある。 店内には、サラリーマン風の男が一人と、どこかで食事でもして帰りに寄ったのよ、という二人連れの女性。 恋愛の相談をしているのか、真剣な表情の一人と、どこか諦めきった一人。 手元に置いた携帯が、メールの着信を知らせるのを横目に見ながら、ナッツを口に入れる。 少し喧噪で濁った空気を店内に持ち込んだ、二人を気にするそぶりもなく、何度目かのアドバイスを送る。 僕らは、レコードを選んでいるマスターの前を通り過ぎて、カウンターの隅に席を取った。 眺めていたライナーノーツから顔を上げ、ほんの少しの挨拶と、気付かぬほど静かに出されるドリンクメニュー。 ここには、誰もいない。 僕がここで注文するのは、タヒチ・ビールか、モスコ・ミュール、 考え事をしたいときのための、アブソリュート・ウォッカだけだ。 メニューを彼女に示し、僕はポケットからライターと、セブンスターを出す。 同じように静かに、灰皿が用意される。 やはり、ここには誰もいない。 いるのは、僕と、彼女と、耳に届くジャズシンガーだけだ。 僕は、マスターの顔を改めて見直し、そうだ、こういう顔だったかもしれないな、と思い直して モスコ・ミュールと、ジン・ライムをオーダーした。 まったく、今日のような気だるい日には、甘ったるいカクテルは似つかわしくない。

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5 min.03

その店に着くまでの何分か、何を話したのかよく憶えていない。きっと、舞い上がってしまっていたのだろう。本屋を出て歩き始めた地点から曲がり角までの、石畳の数が16個とか、すれ違った人が6人とか、不思議とそんなことは憶えているのに、何を話していたか、まったく思い出せない。でもまぁ、恐らく、遅れた理由を言って謝って『待ちました?』みたいなたわいもない会話をしていたんだろう。 それ以外に、話すことが、ない。 ** なぜ話すことがないんだろう。確かに僕は元来、口数の多い男ではなかった、それは別に女の子相手に限らず、大事なことやとるに足らないことやそういったことも、あまり口にしなかった……?いや、違うかもしれない。中学の頃、そうなったんだ。よくよく考えれば、小学校の頃はよく話していたし、しゃっべっていたけど、だけど、小学校の終わり頃、ずっと親友だった友達の1人と(今にしてみれば)くだらない理由で喧嘩して、激怒した僕はそれ以来口をきいていない。そして中学生になって、周りの友達のほとんどは小学校の時と同じだったけど、変わり者だった僕は、あんまり特別仲良くなる、という友達はいなかったように思う、そのときから、自分の中で、『僕は無口』なんていうレッテルを自分に貼っていた。 それが少し変わってきたのは、大学受験に失敗し、名古屋で1年浪人した頃だったんじゃないだろうか?僕にとって始めての独り暮らし。寮住まい。何人か高校の時の友達が一緒で、仲良かった奴もいたんだけど、なにぶん予備校では友達はいない。もともと変わった奴だから、どうも、同じクラスの女の子の間で噂になってたこともあったみたいだけど、それは後で友人に聞いた話だし、なにより日中誰とも話さない日なんてほとんど毎日だった。そんなだから、女の子の友達なんていないし、かといって勉強する気も起きなくて、毎日本屋に行ったり、競馬場に行ったり、もちろん自分が受けたい授業は受けてたけど、気ままに過ごしてた。ただ、そういう解放された心境のせいなのか?そこで出会った友達とはすごく仲良くなって、いつもその10人くらいの中の何人かで遊んでた。溶けたのかもしれない。

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いつから彼女を好きだったのかは、もう憶えていない。 そのころ熱心に付けていた日記には何か書いているだろうか? いや、たぶんなにも書かれていないだろう。 あれは、彼女が好きになり始めてから、『熱心に』書き始めたのだから。 僕は彼女に突然出会ったわけではなかった。 出会って1年以上もの間、本当にごく近くにいたのに、ほとんど何も話したことがなかった。 そして、ある日、それはたぶん、ある5月のよく晴れた日、 いつも通り、教室の一番後ろの席からぼんやりとクラスメイトを眺めていて、 彼女がいることに気づいた、のだ。 以前に冗談めかしてその話をしたら、ずっと前からいたよぉ、と、冗談めかして返されて、 二の句が継げなかった。いや、確かにそうなんだけど、僕には、そうじゃなかったからだ。 そんな僕の恋の始まりは、結局のところ、いままでと同じことだった。 よくよく考えてみれば、僕には一目惚れというヤツがない。 照れ隠し、というわけではないけど、比較的長い間なんとも思わなかったのに、 ある日突然、あ、こんな女の子いたんだ…パチリ、とスイッチが切り替わるように 想う、 自分でもよくわからない、わからないから、ただ、そうなんだ…と思う、 初めから仲がいい女の子はそのまま仲がいいままという方が多い、 でも、その恋は上手くはいかなかった。 そのとき、彼女には彼氏がいたし、その彼氏に遠慮してる間に、僕の友達に取られてしまった。 『取られてしまった』…嫌な表現だけど、でも、正直な感想だ ただ、その友達が好きだったから、しょうがないか、と思っただけだ そう、上手くいかなかったのだ、 ある、5分間を除いては… ** 本屋を出て、交差点をわたり、2ブロック歩いた先に、 紅い看板が下がっているビルがある、 そこは僕のお気に入りの場所で、 待ち合わせのビルに週2日行くのだって、このバーによるついで、みたいなものだ とはいっても、店員と何かを話したことはない。 顔さえ定かではない だいたい僕はタヒチ・ビールを注文して、それを飲みながらタバコをふかし、 目の前の窓から見える前の通りをぼんやり眺めて、 きょうあったことや、昨日あったことや、明日あるかもしれないことや、 ずっと、前にあったことを思い返しているだけだから、 そこに来ている誰かと、共通の話題を持つことは極めて少ない、 注文以外で言葉を発したことさえないかもしれない、 だから僕は、顔なじみだけど、常連客じゃなかった でも、そのバーはそんな客が多かった

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正直に言って、部屋を出るとき、まだ迷っていた。『どんな自分で行こう』か、と。 もちろん、何を考えて出掛けたとしても、『僕は僕』で間違いはないのだが その日逢う相手が、5年間想い続けてきた相手…というのなら話は別だ。 ただし、5年前とは違う、彼女は結婚を間近に控えた女性であり、 僕にも、半ば将来を誓い合った相手がいる、 そう、5年は長かった だとしても、僕にとって『昔好きだった女性』というのは特別であり、 それはつまり、期待する心と、失望を拒絶する不安とが入り交じった時間でもあった だが、僕はいちばん正直な心は、『逢いたい』ということだ、ということを素直に認め、 ── それはもとよりわかっていたことなのだが ── バス・ルームの鏡で最終チェックをしてから、 部屋に鍵を掛け出掛けた。 待ち合わせたのは僕が週に2度は出掛けているビルの1階で、 同じような待ち合わせの男女がひしめいてる他は、迷うわけなどあるはずはなかった、しかし、 そこへ向かうまでの道のりは、とにかく、非常に遠く思えた 出来れば、その交差点の向かい側の2階の、 少しこじゃれたおよそこのドキドキした心境には似つかわしくないようなカフェの一角に陣取り、 待ち合わせ場所を盗み見ながら、気付けのウオッカなどをあおりたいような気分だった だが、待ち合わせの時間に既に3分ほど遅れていた僕はそんな話はさておき いそいそと待ち合わせ場所へと向かった まるで、初めてのデート、の時のように。 彼女は、すぐそばの本屋で立ち読みして待っていた。 一瞬、怒って帰ってしまったかとも思ったが、 彼女に限ってはそんなことはあり得ないし、正直言ってかなりあせったが、 結局のところ、何も問題はなかった。 彼女は ── 僕が好きだった頃のままだった。なにも変わってやしない。 あやうく、本屋で見つけた瞬間に、惚れそうになったが、いやいや。そうはいかない。 少し、いつもより(僕が知っていた『いつも』より、だが)厚く化粧をし、 少し派手めの服装をし、 つまり、気を遣ってくれていた。 一方の僕はといえば、未だに学生気分であり、普段着に毛の生えた程度の格好だった。 もちろん、スーツや、その他の、『デート仕様』で来ることも考えたが、 そんな服を着て一番焦ってしまうのは自分で、 なにより、彼女に警戒されたり、笑われるのが嫌だったので、 努めて、『普通』にしていたのだった そして、先に見つけたが、何も言わずに近づいていった僕を見て、 彼女は、 『久し振り、変わらないね』 とだけいい、にこっと、笑って見せた。 それは、僕が、惚れた、笑顔だった。

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