「民主主義」ってなんだ

民主主義を守れだとか、ファシストがどうだとかいう声を街角で見掛けることがあり、そのカウンターとして選挙を経ているのだから民主主義だろとか、少数意見が多数意見を覆すのは民主主義なのかだとか言う声もあり、というかそもそも民主主義ってなんなのよ、と思ったりします。


気になるのでちょっと調べてみました。ただし、手抜きしてWikipediaで。


「民主主義」をWikipediaで調べるとかなり広い意味を持つ言葉だと言うことがわかります。ざっくり言うとこう。

民主主義 – Wikipedia

民主主義(みんしゅしゅぎ、デモクラシー、英語: democracy)とは、国家や集団の権力者が構成員の全員であり、その意思決定は構成員の合意により行う体制・政体を指す。日本語では特に政体を指す場合は民主政(みんしゅせい)とも訳される。日本語の広義の「民主主義(みんしゅしゅぎ)」は上記の体制・政体をも指すが、狭義ではこの民主制・民主政を他の制度より重んじる主義(思想・運動)を言う「=民主制主義」。



「民主主義」の反対は「権威主義」であり、独裁や専制、全体主義など。独裁や専制は何となくわかると思うので、全体主義の概要を調べるとこう。

全体主義 – Wikipedia

体主義(ぜんたいしゅぎ、イタリア語: totalitarismo)とは、個人の全ては全体に従属すべきとする思想または政治体制の1つである[1][2][3][4][5]。この体制を採用する国家は、通常1つの個人や党派または階級によって支配され、その権威には制限が無く、公私を問わず国民生活の全ての側面に対して可能な限り規制を加えるように努める[6]。 政治学では権威主義体制の極端な形とされる。通常は単なる独裁や専制とは異なり、「全体の利益を個人の利益より優先する」だけではなく、個人の私生活なども積極的または強制的に全体に従属させる。全体主義の対義語は個人主義、権威主義の対義語は民主主義である。


日本は長らく自民党が与党に座り続ける体制だったけれど、それだけでは「全体主義」には当たらないことがわかります。数年で交代することが決定している内閣総理大臣に対して使う言葉でもないですね。こういう意味での非民主主主義は、現在の日本政府に対しては当たりそうにありません。天皇もまあ、実質的に政治的決定権がゼロなので、当たりそうにないですね。大統領制の方がよっぽど近そう。


で、狭い意味での「民主主義」というと、現在多くの国で採用されている「間接民主主義」(議会制民主主義)のことを指すみたいです(厳密には違うけど、身近にある民主主義という意味で言うと日本人にとってはこれになるんじゃないかな)。

間接民主制 – Wikipedia

間接民主制(かんせつみんしゅせい)とは、民主主義における政治制度のひとつ。代表民主制、代議制ともいう。議会制民主主義と同義である。 選挙などのある一定の方法によって民意の代表者を選出し、自らの権力の行使をその代表者に信託することで、間接的に政治に参加しその意思を反映させる政治制度をさす。対になる概念として直接民主制がある。


民意の代表者に権力の行使を信託するシステム。現在日本で揉めていることでわかるように、ある問題を焦点に選挙を行い代表者を選出し、その後同じ代表者が他の問題に当たるという場合に、「前の問題では信託したけど、こっちの問題では信託していない」というようなことが起こりえ、それはもうシステム上の欠陥じゃないのと思うのですけれど、メリット・デメリット、および効率性を考慮すると、そういうのも含めて飲んでいきましょうというのが間接民主主義なのかもねと思ったりします。


さて、話をちょっと戻すと、民主主義の意思決定方法について、概要では「その意思決定は構成員の合意により行う」と記載されているだけで、それが多数決でなければならないとは書いてありません。「多数決」の項目にはこうあります。

多数決 – Wikipedia

より多くの人間が納得する結論を導き出すこと、特定の人物の決定に委ねないことから、民主制と深く関連したものであり、民主制の中では手続き的妥当性から採用されていることが多いが、論理的には民主制において必須なものではなく、全員が納得するまで議論し続ける形の民主制もあり得る。また、どんな2人を選びだしても、十分細部まで比較すれば、同一の意思を共有することはない。したがって、多数決には個々の意志の互譲や切り捨てが必ず伴う。単純な多数決は衆愚政治へとつながる危険性をはらんでいる。多数決はつねに少数意見の無視をともなう「多数派による専制」(トクヴィル)の側面があり「最大多数の最大幸福」(功利主義)がもたらす倫理上の負の側面をつねにはらむ。

多数決の正当性について、多数が必ずしも客観的に真実であり妥当なものを捉えられるものではない、とする批判がある一方で、少数説との比較において多くが相対的に良いと判断するものを選ぶことに最低限の正当性を認める発想がある。



民主主義についてはこんな感じですかね。




ここからは個人的な意見です。


「民主主義というと多数決」という短絡的な思考は、政府がどうのこうのと言うよりも、割と日常生活をベースに育まれてきているものではないかと感じています。学校でも会社でも地域コミュニティでも、多数決であっさり方針を決めてしまうことは、日常的に行われています。もちろんすべての課題について議論を尽くすなんて非効率的ですし、その場を任せられるリーダーが常にいるとも限りませんから、多数決で物事を決めていくことには一定の利便性があるとは思うのですけれど、その反面、その効率性を妨げるような行為、具体的に言えば多数派に従わないような意見を述べることを否定したり、そもそも聴取すること自体をしなかったりということが起きえます。また、少数派が自らを多数派に見せようと画策することも、結局は、数で押し通そうという思考をなぞっているだけなので、「民主主義というと多数決」という短絡的な思考から抜け出ていません。

もちろん、法律的には最終的な決定は多数決によって決定することになっているとは思うのですけど、そこに至る過程としては、様々な意見をくみ取って合意を形成していくことが必要でしょう。少数意見を無視することになったとしても、「少数意見を無視することになった」という認識はあるべきではないかと思うのです。少数派の側にも、そういう認識を多数派が持っているという実感があるべきでしょう。そこまでやってからの多数決であれば、意志決定システムとして機能するだろうなと思うわけです。

つまり、多数決を行う前提として、少数派の意見を十分に聞く必要があり、そのために色んな思想を持った人が色んな意見を言える土壌があるべきだと思うんですよね。それで少数意見がくみ取られるとは限りませんけど、その意見が将来に反映されることがあるかも知れないし、現場での運用に影響を与えられるかも知れない。そうした声を上げられるかどうか。また、さまざまな声が(自分も賛成するかどうかとは別に)そこに存在することを受け入れることが出来るかどうか。そういうことが多数決の、ひいては民主主義のベースとなるのではないかと感じています。


転じて、僕個人は、昨今の様々な状況に対して、

  • 多数派が多数決でもって少数派の意見を無視し押し通そうとすること
  • 少数派が強い印象や数の詐称によって自らを多数派であるとアピールしようとすること
  • 少数派の意見、及びそれを主張する人そのものを否定し中傷すること
  • 多数派の意見、及びそれを主張する人そのものを否定し中傷すること
  • 特徴的な対立にのみ焦点を当てて多数派・少数派を明確に区別しようとすること、そもそも論点を明らかにしないこと
  • 多数派であれ、少数派であれ、印象だけを重視しようとすること
  • 主張することの正当性を盾に法規を守らないこと
  • 過度な騒音
  • 自らと同じ意見を見聞きして納得して終わることは民主主義のベースになりうるのか?

などに危惧と違和感を感じています。


一種のお祭りみたいなもんなのだし、そんなに堅苦しく考えるなよという意見もあるでしょうし、そもそも注目してもらえなければ何も始まらないという意見もあるでしょうし、それぞれにそれぞれのことを考えて行動しているのだろうとは思うのですけれど、今のこれがこういう活動のテンプレートとして定着してしまうのではなく、成熟の過程にあるのだと僕個人は信じています。

もっとも60年以上続いている政治制度の方に、今後の成熟があるのかどうなのかという点については、全く自信は無いのですが……