ちと用事があって、物理的にネットから遮断されることとなり、携帯もなかなか通じない状況に陥ったとき、数時間ほど「私が連絡取れないあいだ、何かあるのではないか」という強迫神経症のような目眩に襲われ、仕事はもちろん家内や幼い倅に何か起きたらどうしようとか、twitter上で誰か炎上してたらとか、さまざま頭をよぎったわけである。
やっぱりなにがしか考えてしまう。あれ(=ネタでもサーバの状況でもTwitterの流れでもアクセス状況でもオリンピックでも何でも)どうなったかな、っていう。で、そうやって気になってアクセスしたらば、今度はなにがしか書きたくなったり、もしくはついでになんかしたりして結局延々と時間を使うと言うことになりがちなんだけども、せっかくの休みなんだからいつもと同じように過ごしててもなぁとかいうのを感じたりとか。
僕の日常の「暇な時間」を過ごすのに閉めているのは、読書とニコニコ動画名分けだけど、何となく休日はニコニコ動画を見ないことが多め。休日は休日で普段とは違う「やるべきこと」がたくさんあってそれなりに忙しいから、ニコニコ動画をゆっくり見てると何も出来ないという意味での戒め的なアレなんだけども、これって要するにお二方言われるところの「サバト」なんだろうなぁと。意識的に遮断することによって他のところに時間使うと良いよ的な。
この話の面白いところは、決して普段の生活を変えると言うところに行かないところ。
「ネットがない生活は豊かに感じられるよ」→「ネットは時間の浪費」とかじゃなく、日常の生活が存在していることが大前提で、その上で敢えてそこから一歩距離を置いてみると色んな意味で面白いぜって言う。面白いぜって言うためにはそれをフィードバックすべき日常の生活が存在している必要があって、その双方を感じ取れる人だけが受け入れられる事柄かなとか。
人間の感性が魚眼レンズのように出来ていれば、どれだけ寄ったって構わないんだろうけども、案外そんな風には出来ていなくて、近くも遠くも中途半端にしか見渡せない、おおよそ焦点距離50mmくらいの単焦点レンズ的な出来なんだよね。ま、それが面白いんだどね。