論拠を選ぶセンスとか。


この辺読んで。

ネット界の片隅でちょっとした揉め事があった。
きっかけは「たんぽぽのなみだ?運営日誌」たんぽぽ氏と、「らんきーブログ」ぶいっちゃん氏の間で起きた「水からの伝言」をめぐる論争だ。
 


こういうの、うんざりしちゃって全部追うことはないんだけれども、
きっかけを眺めるに何でこれが、“「水からの伝言」をめぐる論争”にまで発展するのか意味不明。

「水からの伝言」がインチキであることはもうなんつーか自明過ぎるくらい自明で、
狂信者以外は誰もがそれを感じているわけで、
そういう意味ではきっかけの部分において当事者双方に意見の食い違いはなさげ。


流れを全く追ってないから、かぶってるとか煎じてるとかスルーして書くけど、
僕が共感できないのは、言葉の力が大事だと書くその例として、
自分自身が違和感を感じているものを持ち出しているところ。

なぜそれなのだろう?

媚びなのか妥協なのか間違いなのかよく分からんけれども、
大事なことを伝えようとしているときに、自分自身で確信を持てないようなことを論拠にあげる、
そのテキストセンスがどうもよくわからない。
その点だけで、多分二度とブログを開かないだろうなと言う確信をもてる。
このエントリしか見てないけど。
(本来は、左派系のブログ、らしいです。どっちにしろ僕とはあんまり縁がなさそう)

結論でどんなに大事なことを語っていようとも…
それを導き出す論理においてあからさまな破綻があったとしたら、
その本来大事な結論は、ただ薄っぺらい口当たりの良い言葉なだけだ。
その言葉に、言葉の力があるとは到底思えない。


その論拠に例のアレをあげた人を批判している人たちもいろいろで、
エントリのタイトルがそのアレを批判する感じだったりすると、もう読む気がしない。
百歩譲って、僕は自明だと思ってるアレのインチキさを、
それを指摘せずに都市伝説として愛でようよと言う人がいても、まぁ良いかなと思う。
そのアレのインチキさを極端に糾弾する人も、まぁ別にいても良い。

でもなーそのときに、この話とリンクさせるのはなんか違うんじゃねーのと思う。

愛でてる人はそのまま放っておいてあげればいいし、
くだんのきっかけエントリに関しては、
言葉は大事だね、ってことと、センスがないね、ってことで終わらせとけば良いかと。
アレを叩きたいなら、もっと電波なところありそうだしね。


まぁそんなこんなで、ざっくり思ったのだけど、
最終的に何が面白いって、アレだね。繰り返しになるけど、
言葉の力を大事にしようと書いた自分が、言葉に不自由だったって言う皮肉だね。
あ、俺もだけどね。

というわけで、今日の他山の石でした。