今こうして目の前に、
『手つかず』の風景があって
それをどう切るか、が、僕に任されている。
叙情的に切ることも出来るし、
論説的に切ることも出来る。
柔らかく書くことも、とげとげしく書くことも
想いを重ね合わせることも、知らんぷりすることも
僕がどう切っても、その風景自体が変わることはない
ただ、その風景をどう受け止めるかは大きく違う
僕らが主観的に生きざるを得ないのだから
ひとりの切り方で見える風景は変わってしまう
たとえ事実と異なっていたとしても
目に見えるもの、感じたものが全てであって
結局否定しながらもそれに頼らなくちゃならない
実際にそれがどんな風景だったかなんてことは
もう、どうでもよくなってしまっていて
僕を通してこの街を見ている
僕はカメラのフィルターのように
写真に写り込むことはないのだろう
風景が変われば取り外されて
交換されてしまうのだろう