去年書いた『artist』で書ききれてなかったので、補足。
このことについて、2つのことを同時に考えていたのだ、と気づいてなかった。
ひとつは、ある種の人々は、感覚的なモノに大して過剰に理屈をこねて、満足しきっていること、
もうひとつは、ある種の人々は、自分が相手とコミュニケーションを取れていない理由がわからずに、
自分の言葉に満足して、理由を相手のせいだけにして満足してしまっていること、
そういうことが僕はあまり好きではない、ということなのだ、
と、昨日ヒトと話していてフト気が付いた。
例えば、僕が、その人と同じ勉強や仕事をしていて、その人の言っていることがわからなければ、
僕が勉強不足だ、ということであり、2人のコミュニケーションが上手く成り立たないのは
僕にも責任があるということになる、
だが、その人が哲学を学んでいる友人で、僕は普通の男、だとしたら、
彼が高名な哲学者の言を引用してきて説明したとしても、僕にはわからないだろう。
その彼は、何故その言葉を引用したかと、その言葉そのものについて、説明する必要があるし、
いやそれ以前に、『僕がわかっていない』ということをきちんと感じ取る必要がある、
本当に凄い人はきちんと言葉を選んでくれる、
上滑りな人ほど、他人の言葉を自分の言葉のように使う。
そして、理解できない相手を、卑下する。
むしろ、卑下することが目的ならば、それは構わない。そういう言葉の使い方はするし、
わからない相手とはそういう話はしないというコミュニケーションもある、疲れるからね、
だけど、1対1で話をしているときに、相手も自分と同じ『基準』を持って話をしている、
と思ってしまうのは、失礼じゃないだろうか…?
というのは村上龍の半ば受け売りだけど、
古い友人から知り合いまで、いろんなヒトと話していると、その辺りが
わかってる人と、わかってない人の境、であるような気もする。
僕は昔から口喧嘩が苦手で、後々になってから、『ああ言ってやればよかった、』
なんてくよくよ後悔するタチなので余計そういうことを思うのかもしれない。
『上滑りな人』の矛盾やはったりを突いてやりこめるということができない。
むしろ、
上滑りな人の方がタチがいい、きちんと知識も感覚も持ってるのに、
『コミュニケーション』を独りよがりな方向でしかできない人の方がやっかいだ、
『鼻持ちならない』という表現がぴったりな人々、には仲間入りしたくないし、
できることならあまり付き合いたくない。