二十歳

Number870
雑誌「Sports Graphic Number」で「二十歳のころ。」という特集をやっていました。スター選手の二十歳の頃を振り返りつつ、現在二十歳で活躍している選手も紹介していく感じの特集。読み応えが合ってとても良い特集でした。スポーツ選手を始めとして早くから「大人の社会」で生きることを求められる子供は一般的に成熟が早く、同じ「二十歳のころ」と言っても僕や、僕の周りのごく普通の人たちとは考えていることが違って見えるのですけど、後から振り返ったり、公私をならして見つめたりすると、競技に関する部分が突出して成熟しているだけで全体のバランスはそう変わらないのかもな、とも感じます。それでも二十歳のときの僕よりは、彼らの方が人間として遥かに成熟していますけどね。今の僕よりも成熟しているかも。



最近は仕事の関係で、二十歳前後の男女と話す機会がよくあります。話すといっても一緒にいる時間の99%は仕事中なので、そんなに深い話をするわけではないけれど、単純な人間性の問題というよりかは、個人によって「気付いているか/気付いていないか」の差がものすごく大きいんだなあと感じます。気付いている人は大人に見えるし、気付いていない人は子供に見える。気付いていなくてもきちんと話をすれば納得してきちんと働けるのだけど、自らはなかなか。

仕事のことがベースにあるのでどうしても「もう少ししっかりしてくれよ」と思ってしまう部分もあるのですけど、でも、それはうーん大人の都合なんですよね。自分が大学生で二十歳の時、そんなこと考えてたかって言われたら正直言って1ミリも考えてないよね。コンビニでバイトしてたときも考えてたのはあと何分で終わるかと、持って帰れる廃棄が出るかであって、店の売り上げ向上のためにとかお客様が気持ち良く買いものして頂けるようにとか、まあ、考えたことはなかったです。



大人の社会にずっといると、どうしても相手を絶対的な基準で見てしまいがちなんですよね。この人はこういう人、あの人はああいう人、みたいな感じ。実際それで困ることはないし、正しい。でも「二十歳」というのは、まだまだ成熟しきっていない部分が多い人たちで、「こいつはこういう奴だ」と思ったことが次の週には変わってると言うこともよくある。

コミュニケーションとしてはそういう変化や変化する可能性は考慮に入れない方が楽なんだけれど、それは余り変わることのない大人相手だから大きな問題にならないだけで、「二十歳」と接するときにはもっと別の接し方をする必要があるんじゃないかなあ。僕ら大人は季節が巡っても新芽が出て花が咲くくらいで、新しい枝が伸びたり、枝分かれが増えたりと行ったことは無いけれど、彼らは毎日違う。

色んな職場の大人達が、「二十歳」を見て「こいつはこう、あいつはこう」と決めていくのを見ながら、そうじゃないんじゃないかなあと最近よく思います。歳を取って頭が固くなってきた大人にとっては、少し難しいことかもしれないですけどね。