そんな世界は嫌いだ。

個人の好みを押しつけられるのが嫌いだ。相談があるのならまだいい。個人の思い込みや「良かれと思って」を笑顔で押しつけられるのが嫌いだ。それを正義として説教されるのが嫌いだ。多少それからずれたことで、鬼の首を取ったように正論を語られるのが嫌いだ。正しいことに100%沿うのは素敵かもしれないけど、それが80%や70%になったところで死ぬわけじゃないし、例外が2件続いたとしてもベースが変わらなければどうということはない。たった直近2件の出来事で未来永劫、状況が悪化するような血の上り方を見ているとうんざりする。別に3件目で死ぬわけではなかろう。我々は密林でゲリラとして政府軍と敵対しているわけではない。

10代の頃、親からされる説教が嫌いだった。これは「親が嫌いだ」という意味ではない、親のことは大好きだ、反抗期だったというのもあるだろうけど、理屈として正しいことを子どもはそうすべきだという理路で延々語られるのはとても苦痛だった。「それは正しいが今の私には100%は受け入れられない」それが私の今の現状であるのに、その現状を見もせずに説得するために、延々と正論を語ること、要するに自分にとって大事なのは「私」では無く「正論」の方だ、ということに気付かないことが嫌いだ。もちろん大人になってからは親の説教も流せるようになったので、あまり気にならなくなった。実家と遠く離れているというせいもある。

それでも今でもそういう押しつけ、相手のことを考えている風で大して見ていない態度が嫌いだ。そういうことを繰り返されると心底うんざりする。そしてそういう押しつけが受け入れられないことに対して、「この人にはこれは受け入れられないのだ」と捉えられないことにうんざりする。誰もが他人の言うことをすべて受け入れて生きているわけじゃないし、自分が正しいと思うことを受け入れてもらえなくても仕方がなく、「相手が受け入れないこと」それ自体に文句を言うのは嫌いだ。自分の考えが通るかどうかは、相手が「うん」と言うかどうかだけに掛かっているという過信が嫌いだ。相手にだって好みと思い込みがあると想像できないことが嫌いだ。それを尊重できないことが嫌いだ。

そういう他人との違いと、「我慢する」と言う表現でしか共存できないことが嫌いだ。それは要するに相手が受け入れないから自分が被害を被っているんだぞ、という押しつけの上塗りでしかない。自分のスタイルならハッピー、そうでないなら我慢でアンハッピー。そういうモノクロ世界に生きるのが嫌いだ。正しくないだろうことを、それでも、それだからその人なんだと愛でることが出来ない世界は嫌いだ。正しくなければ明日死ぬ世界では、好き嫌い関係なく正しく生きなければならない。そういう場所も世界にはたくさんある。でもここはそうではないし、そんな世界は嫌いだ。