他人にモノを教えるとき、の葛藤。

何か自分が詳しいことについて、誰かに教えるとき、
よく感じる葛藤って言うヤツがあって。
どうしたもんかなー…といつも悩む。


モノには、大抵は『コレが大体正解』という解答があって、
それは例えば、写真を撮るときにはきちんと保持する、保持するためには脇を締めて…とか。
その上に、何らかのテクニックというか、コツというか、
そういうモノが付加されて、1つの技術になっていることが多い。
コツの方は、写真を撮るときはこうすると綺麗に撮れる、とか。


でも、初心者に限らず、自分以外の誰かというのは、
自分とは違う何かを持っているわけで。

誰かが自分と同じ何かをしているのを見るとき、
一番面白いのは、そういうところを発見することのハズなのに、
初心者にモノを教えるとき、特に教えることに必死になってしまっているときには、
そういうことよりも、“自分が正しいと思っていることを伝える”ことに神経がいきすぎてしまって、
まず何があればよく、その上で何を選択していけば、と言うことを伝えるのを忘れて、
結果、気付いたら相手が自分の劣化コピー(ないしは自分が相手の劣化コピー)になっていた、
というようなことがある。


そういうのは結局、ただ自己満足なだけで、
全体としてはあんまり面白くないなー、
残念なことだよな…と、最近のいくつかの出来事を通して思った。



何が基礎技術で、何が感性かが、きっちり切り分けられていないと、
そういうことが起きるのかもしれない、と思う。

DJでも、写真撮影でも良いけど、
何も知らない人に教えるべきなのは、
格好良く聞かせる技術や、綺麗に撮れる技術…ではないんだよね。
基礎無しでそれだけ教えてもらっても、結局は、その技術のことしかできない。
毎回毎回、それかよ、みたいなことになったりする。



相手には悪いな、と思うけれども、
何にも知らない人に何かをさせると、
その内の何人かは、こっちも驚くようなやり方をしたり、結果を出したりする。
それは正しいとか間違ってるとかじゃなくて、
少なくとも僕が知らなかった感性、モノの見方や考え方なわけで、
習得する技術や、選択する技術は、その感性の上に立脚すべきで。

ということは、基本的に放っておいて、
感性が求めたら、つまり、
何かを『したい』のだけど、やり方が分からない、上手く行かない、
そういう状況になって初めて、一緒に考えてあげればいいのかな、と。



教える人間としては、自分が正しいと思っていることや、
美しい/格好いいと思っていることが当然あるわけだから、
それを教えてあげたい、そう思うのが当然だと思うし、
僕にもそういう衝動はしょっちゅうある。

でも、1から10まで教えてしまったら、僕が知っているモノにしかならない。

そんなのは、凄く退屈だ。

教える方にも我慢が必要で、
むしろ、その相手のリアクションを楽しんでいればいいと思うのだよね。
たぶん。