デザインは想いを吸収する。

世の中には様々なデザインがある。
全てのものがデザインされていると言っても良い。
デザインという要素が存在しない人工物はほとんどあり得ない。

── 僕は、芸大出身でもないし、
デザインを、理論的にも実践的にも学んだことがないので、
見当はずれのことを書いていたら申し訳ないのだけど、
ひとつのインスピレーションと解釈していただきたい ──

そんな中で、『残っているデザイン』は、
その他のデザインと何が違うんだろう?ということが、
もの凄く気になった。


デザインそれぞれに対する評価は、時代によって大きく異なると思う。
どの時代でも絶賛されるデザインはそうはないし、
過去、絶賛された(≒もてはやされた)デザインであっても、
現在見るとひどく時代遅れでダサいデザインに見えるものもあるだろう。

逆に、今見て、凄く洗練されて見えたり、味がある、と解釈されるものもある。
こうした、現在も評価されているデザインが、
それが作り出された過去においても評価されていたかというと、
そうでもない。

写真は、公衆電話があることを示す看板である。


今見ると凄く味のある看板ではあるけれども、
この看板が据え付けられた(または作成された)当時は、
どこにでもある、ありふれたものだったと思う。
別にことさらに、これを見る人間のことを意識して作られたものではなく、
当時一般的だった図柄とフォントを、
デザイナーのセンスで配置したもの、だろうと思う。
特別、ではない。


ではなぜ、これに対して、今、特別なモノを感じるのだろう?

僕は、その抽象的な解釈のひとつとして、
『デザインは想いを吸収する』
という考え方を提案/定義したいと思う。


デザインというのは、
作り手によって作られた時点では完成していない、のだと思う。
それ、が、何であろうとも、
それにユーザが存在していない段階では、
アート作品との区別は難しい。
(決して、デザインはアートではないとか、アートは想いを吸収しないとか、そういうことではない。
単純に、アート作品をそこにあるだけで満足できるものと定義した時に、
ユーザを想定するものに施された装飾をデザインと呼ぶことにしよう、ということだ)

例えば携帯電話のデザイン。
それがラフの段階でデザイナーのデスクの上にあるときには、
その造形の良し悪しとは別に、
それはまさしくラフ、デザイン案でしかなく、
そこには、ラフというもののデザインでしかデザインが存在していない。
そのラフを見せられた人は、ラフとしてのデザインには想いを抱くだろうが、
携帯電話として想いを抱くのではないし、
本来の目的である、携帯電話のデザインとしては機能していない。

そのデザイン案が採用され、様々な過程を経て、携帯電話として世に出たとき、
ああ、世に出なくてもデザイナーの元にサンプルとして届けられたときでもいいや、
その時に、デザインはデザインとして呼吸を始める。
それを取り巻く、様々な想いを、
『その個体毎に』吸収していく。

僕が僕の携帯に対して抱く想いと、
友人がその友人の携帯に対して抱く想いとは違うし、
同時に、僕が友人の携帯に対して抱く想いもまた違う。
想いを含んだデザインは、非常に多面的であり、多層的だ。
前述の看板デザインにしても、
『味のある良い看板だなぁ』僕に対し、
年長の友人が『懐かしい看板だなぁ』という想いを抱いたとしても、
それはどちらかがセンスが無いと言うことではなく、
そのデザインとの間にある、想いが『違う』というだけのことだ。


そして、
(定義として極めて曖昧にはなるけれども、)
より多くのエネルギーを持つデザインは、
より多くの想いを吸収できるのではないだろうか?

それはつまり、より多面的(多くの人の想い)で、
より多層的(多くの異なる想い)な想いを吸収し、
あたかも、その物体に対して、直接思い入れを抱いているかのような、
そんな錯覚を呼び起こす。

もちろんモノへの直接的な思い入れも存在しているけれども、
僕の前述の看板への思い入れは、あくまでデザインに依るものであって、
そのものに対するものではない。
もしそれが、もっと事務的な文字だけの看板だったら、
僕は想いを抱かないし、見向きもしないだろう。

デザインには、そんな力があると思う。


で、そんなデザインを作り出すにはどうしたらいいのか…
というフェーズに話を移していきたいところだけど、
先に断っているとおり、僕はそんなことを理論的に学んだ経験はないし、
実践的に深く携わってもいない。
なので、そんなことはよく分からない。
(だから、日々悪戦苦闘し、多くの駄作を生み続ける結果になっているのだ)

ただ、重要なことは、
多面的かつ多層的な想いを許容できるデザインこそが、
今現在、僕が良いデザインだと思えるデザインであると言うことだ。

そしてもちろん、逆説的だが、
意図的にそうした多様な想いを制限するデザインも、素晴らしいということになる。
そこに、想いの多様性に対する意識が存在している限り、
そのデザインが体現するものは、その意識に立脚する。


想いを吸収し続けるデザインは、
そう簡単には忘れられない。

僕らは想いを分散し、蓄積し、確認する。

それもまた、デザインのなすべき役目だろうと思う。